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人民戦線/反ファシズム人民戦線/民族統一戦線

ファシズムの台頭に対抗するための広範な統一戦線の結成。1933年以降、スペインやフランスで始まり、1935年のコミンテルン第7回大会で採用された世界共産主義運動の方針となった。中国での抗日運動でも人民戦線が形成された。

ファシズムの台頭

 第一次世界大戦後、1920年代のイタリアに始まったファシズム運動は、帝国主義諸国の矛盾が深まる中、ヨーロッパ各地に広がっていった。戦後の工業の発達に伴う資本主義国での消費生活や大衆文化の発展は、新たな価値観とともに人々の疎外感を深める面もあった。また大戦中にロシア革命が成功し、社会主義国家が登場したことは、資本家や地主などの保守層の危機感を高めた。特に1929年の世界恐慌を契機として、1930年代にはいると、ドイツのナチズムの台頭、アジアでは日本軍国主義の満州事変など、大戦後のヴェルサイユ体制やワシントン体制などの国際秩序と民主主義や議会政治という既存の価値観を否定して強力な指導者のもと、国家の拡大を図るという全体主義、軍国主義、国粋主義が複合したファシズム勢力が台頭してきた。

左派の結集

 それに対して個人の人権や自由、平等、平和などの価値を守るため、それまで対立し合っていた社会主義政党や共産党などの左派やブルジョワ共和派、自由主義者が統一して戦う必要が唱えられるようになった。特に各国の共産党は、それまでコミンテルンの指示によって、階級闘争を展開し革命を目指す上では、ブルジョワ自由主義や社会民主主義(議会制度などを通じて社会改良を実現しようという考え)はいずれも敵であり、ファシストと同列であると規定(社会ファシズム論)し、激しく攻撃していた。そのような共産党と社会民主主義政党が対立していたことが、ドイツにおいてナチスの台頭を許し、各個撃破されていったことが反省されるようになった。

人民戦線結成の動き

 「人民戦線」結成の具体的な動きとしては、1934年のイタリアにおける社会党と共産党の統一行動協定の調印、1936年2月のスペイン人民戦線内閣の成立と、1934年に運動を開始し、1935年7月14日に広範なフランス人民戦線を成立させ、36年6月に社会党ブルムを首班とする内閣を成立させた動きが典型であるが、それら以外にも、チリやハンガリー、イギリスの共産党と労働党左派の強調などの動きが起こった。

コミンテルンの転換

 1930代から高まった左派陣営における統一を志向し、さらにブルジョワ共和派や自由主義などとも協力しながらファシズムという共通の敵に当たろうという運動の高まりを受け、コミンテルンは大きく方針転換を行った。1935年7月25日コミンテルン第7回大会は、ファシズムの台頭に対し、共産党が社会民主主義者やブルジョワ自由主義者などと幅広い戦線を構築する反ファシズム人民戦線を提起した。ファシズムの台頭を前にしてその暴力的な進出を抑えるためには社会民主主義者やブルジョワ自由主義者との階級闘争を一旦棚上げして、幅広い共同戦線を造ることが必要であると判断して路線を転換させたのだった。

中国での人民戦線結成

 中国では、中国共産党中国国民党が、1927年に第1次国共合作が破綻して以来、1931年の満州事変で日本の侵略が本格化しても一致して戦うことがなかったが、中国共産党はコミンテルンの決定に従い、1935年8月1日八・一宣言を出して統一戦線結成を国民党に呼びかけた。さらに西安事件を経て、1937年の日中戦争勃発を受け、1937年9月23日第2次国共合作が成立し、抗日民族統一戦線が成立し、日本軍の侵略と戦うこととなる。

人民戦線の問題点

 人民戦線は、ファシズムの攻撃から、自由と民主主義という価値を守るという点で共同戦線を組んだものであって、ファシズムに対抗する手段としては当時考えられる最善の策であったし、また必然であったと考えることができる。そして、スペインとフランスでは国民の広範な支持を受けて政権を獲得し、積極的な諸改革にも着手した。しかし、実際には統一の維持は非常に困難であった。特に、ブルジョワ民主主義者と社会民主主義者、共産主義者は互いに不信感を持ち続けていたし、左派の中にはトロツキー派など、人民戦線をスターリン主義による抑圧の一環とみて強く反対するグループもあり、また特にスペインでは国家権力そのものに否定的なアナーキストの活動も根強かった。ファシズム勢力側・資本家側も、人民戦線の弱点である内部対立をさかんに攻撃し、特に右派は、人民戦線はコミンテルンに操られていると宣伝し、保守層の恐怖心を煽った。スペインでは人民戦線内閣が成立するとすぐに軍部が反政府行動を開始し、内戦となった。

人民戦線の敗北

 1936年7月に始まったスペイン内戦は国際的な人民戦線の勝敗に決定的な意味合いをもつことになった。スペイン人民戦線政府は、国際的な支援を要請し、フランス人民戦線内閣ブルム首相はその要請を受けてが支援を決意したが、国内の戦争反対派とイギリスの同調を得られず、結局、不干渉政策を表明した。ドイツとイタリアが公然と反政府軍フランコ将軍を支援したのに対し、苦境に立つ人民戦線を軍事的に支援したのがソ連であった。しかし、人民戦線内部ではソ連の介入によって共産党の力が強まり、それに反発するアナーキストとの内戦などもあり、次第に軍事的に押されて行き、ついに1939年春に崩壊し、フランコ独裁政権が出現する。

宥和政策と独ソ不可侵条約

 また、スペイン支援問題はフランス人民戦線内閣にも亀裂を生じることとなった。フランス人民戦線を支えていた社会党・共産党と急進社会党は次第に不信感を募らせ、調停に失敗したブルムは退陣、人民戦線は内部から崩壊した。替わったブルジョワ共和主義の政党である急進社会党のダラディエ首相は1938年、ミュンヘン会談に参加してヒトラーに対する宥和政策を取ることに転じ、これによって事実上、ファシズムに対する人民戦線運動は敗北に終わったことを意味していた。
 人民戦線運動を終わらせたのは、1939年8月末にスターリンがヒトラーのナチスドイツとの間で独ソ不可侵条約を締結したことであった。人民戦線戦術を推進してきたソ連が、一転してファシズムと手を結んだことはファシズムと戦っていた社会主義者や自由主義者、幅広い大衆運動に大きな衝撃として受け止められ、運動からり出すする動きが強まり、各国の人民戦線運動は崩壊し、世界戦争勃発へと向かっていった。