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コミンテルン/第三インターナショナル/共産主義インターナショナル

1919年結成の国際的な共産主義運動を指導する共産主義インターナショナル。第三インターナショナルともいう。1920~30年代の国際政治にも大きな影響力をもっていた。当初は革命を指導する機関として動いたがドイツ革命の失敗などから、次第に支援機関という性格に変化し、また1935年から人民戦線戦術に転換した。

 コミンテルン Comintern は、共産主義インターナショナル(Communist International)の略。第3インターナショナルともいう。帝国主義と闘う国際的な共産主義運動を志向したレーニンによって提案され、1919年3月に結成された。第一次世界大戦勃発に伴い、各国の社会主義政党が自国の防衛戦争を優先して第2インターナショナルが崩壊したことの反省にたち、労働運動や社会主義運動の国際連帯にとどまらず、各国の共産主義政党が明確に革命を志向するための世界共産党として組織された。その設立を呼びかけたロシア共産党のレーニンの指導権が圧倒的に強い組織となった。1921年7月にはその下部組織として、モスクワでプロフィンテルン(赤色労働組合インターナショナル Profintern )が社会民主主義的な国際労働組合連合(アムステルダム)に対抗して結成された。 → 国際労働運動 第1インターナショナル 三つのインターナショナルの違い

コミンテルンの結成

 1919年3月、コミンテルン第一回の大会に参加したのは、30ヶ国52名の代表であったが、そのほとんどはロシアに亡命していた各国の革命家で、実際に外国からモスクワに到着したのは5人であった。ドイツ共産党(18年末、スパルタクス団を中心に結成した)のローザ=ルクセンブルクらはこの時点では無理であるという意見を伝えてきたが、ロシア革命の成功に自信を持つレーニン、ジノーヴィエフ、トロツキーらはロシア共産党主導でヨーロッパ各国の共産主義を指導し、革命を輸出できると考えていた。このような理念は世界革命論としてトロツキーによって継承されるが、現実的にはヨーロッパでの革命は他国では進展せず、スターリンによる一国社会主義論の路線が主流となっていく。

Episode ラジオで参加を呼びかけたコミンテルン

(引用)1919年1月24日、全ヨーロッパは、モスクワからのラジオ放送によって、近くモスクワのクレムリン宮殿で、共産党インターナショナルの第一回大会が開かれることを知った。しかし、この新国際組織が、なんの目的で、いま作られなければならないのかは判らなかった。この放送は、世界三八ヵ国の革命党にあてての招請状の代りをするものであった。大戦の混乱は、ラジオ放送を通じてのメッセージによってしか、革命党への呼びかけをできなくしていたのである。この放送のおこなわれた三日後には、第二インターナショナル系のベルン会議が開かれることが前から決定していたから、コミンテルンが、このベルン会議に対抗して、急遽新組織を樹立しようとしていることは明白であった。しかし、この異例ともいうべきラジオ放送による大会招請状は、ヨーロッパの社会主義政党から、ほとんどなんの反応もえられなかった。大会は、はじめ2月15日に予定されていたが、各国政府のパスポート発行拒否、逮捕、そして第二インターナショナル系の積極的な妨害にあってやっと3月2日に開会された。大会参加者は三〇ヵ国、三五組織、五二名であった。<菊地昌典『歴史としてのスターリン時代』1966 盛田書店>

レーニンの誤算 第2回大会

 1920年7月、第二回のコミンテルン大会が開催された。フランス、イギリス、ドイツ、イタリアなどの社会党や共産党からも代表が参加し、国際プロレタリアートによる国際革命を目指すことが議論され、レーニンの原則的な理念である世界革命への展望が広がるやに見えた。ちょうどそのとき、ポーランドのピウスツキが領土的野心からロシアに侵攻し、ソヴィエト=ポーランド戦争が始まっており、ソヴィエト=ロシアの赤軍は国境線までポーランド軍を押し戻していた。トロツキーは反対したが、レーニンはポーランドの労働者が呼応して蜂起することを期待し、赤軍にワルシャワに向けて進撃することを命じた。しかしこれは大きな誤算となり、ワルシャワ目前にして赤軍は大敗北を喫した。ポーランドの労働者は国際プロレタリアートの連隊による蜂起よりも、ピウスツキの呼びかけた祖国防衛という民族主義の方を選んだのである。また赤軍兵士も、戦闘意欲が強かった内戦や干渉軍との戦いとは違い、革命の輸出である国際プロレタリア革命の大義に従う意識は弱かった。レーニンの国際革命への楽観主義、理想主義は早くも挫折を余儀なくされた。<E.H.カー/塩川伸明訳『ロシア革命』1979 岩波現代文庫 p.24-27>

ヨーロッパからアジアへ 第3回大会

 さらに、ドイツ革命に失敗し、ハンガリー革命も押さえつけられてしまい、ヨーロッパでの革命運動はたちまちのうちに行き詰まってしまった。ヨーロッパでの革命が困難になるなか、1921年の第3回コミンテルン大会は、国際共産主義運動の攻撃的性格を転換させ、資本主義諸国内の社会民主主義勢力との協調と、植民地支配下の民族主義運動の支援という、「統一戦線」を目指す方向に向かうこととなった。特に植民地の被抑圧民族の解放を方針として掲げたコミンテルンは中国革命に対する支援を強め、1921年の中国共産党の結成を援助し、さらに国民党の孫文に働きかけて国共合作(第1次)を実現させた。中国国民党との協力には否定的な意見もあったが、スターリンは強く国共合作を進めた。しかしその見通しは、1927年の上海クーデターで誤っていたことが明らかになった。それ以後、中国ではコミンテルン指導に従わない毛沢東の路線が強まることとなる。

スターリン体制下のコミンテルン 第6回大会

 1924年にレーニンが死去、ソ連共産党の主導権はスターリンに移った。スターリンは一国社会主義論を掲げ、世界同時革命を否定し、トロツキーらを排除した。コミンテルンはソ連外交の支援機関という性格を強めていった。1928年のコミンテルン第6回大会では帝国主義戦争の脅威が高まる中、各国共産党の武装闘争を掲げ、階級闘争の観点から社会民主主義者に対しても厳しく戦う姿勢に再び転じた。1929年にはトロツキーを国外追放とし、スターリン独裁体制が成立、第一次五ヶ年計画が開始されたが、同年、世界恐慌が始まり、世界はファシズムの台頭というより緊迫した情勢となっていく。

反ファシズム人民戦線

 ファシズムの台頭に対して、ヨーロッパ各国で1934年から、幅広い反ファシズム勢力を結集させる人民戦線の結成の動きが強まってきた。コミンテルンはそれを受けて戦術を転換、1935年のコミンテルン第7回大会ではブルジョア階級との対決を棚上げして、広く民主勢力を結集してファシズムと戦うという「反ファッショ統一戦線(人民戦線)」路線が採択された。これは、フランス、スペイン、中国などでそれぞれ具体化が進み、コミンテルン運動の新たな展開となる。その反面、ソ連共産党ではスターリン独裁体制と官僚制が強まり、自由な発言や活動は封じられるようになり、反対派はきびしく粛清されるという事態が進行していた。

人民戦線戦術へ転換 第7回大会

 1935年7月から8月にかけて、モスクワで開催された、コミンテルン(世界共産党、第3インターナショナル)大会では、ドイツにおけるナチスなどのファシズム(全体主義)の台頭とアジアにおける日本軍国主義による中国侵略に対し、共産党が単独で対決するのではなく、社会党や社会民主党、自由主義者、知識人、宗教家などあらゆる勢力と協力する、反ファシズム人民統一戦線を結成すべきであるという方針を打ち出した。このような戦術を人民戦線という。これは従来の社会民主主義やブルジョア自由主義を的と捉える共産党の戦術を大きく転換するものであった。この方針にもとづいて、フランスやスペインに人民戦線が結成され、人民戦線内閣が誕生した。またアジアでは、中国共産党がこの路線に基づき、1935年に八・一宣言を出し、抗日民族統一戦線の結成を国民党などに呼びかけた。
 コミンテルンの動きを警戒したファシズム国家側は、1936年11月、日独防共協定を締結した。これは日本とドイツがコミンテルンの主導による人民戦線の結成の動きを、国際共産主義の攻勢と捉え、そこから共同して国家を防衛しようとするものであった。また、スペインにおいては人民戦線内閣に対するフランコ将軍の軍事クーデターが起こると、ドイツは全面的な支援に乗り出し、スペイン戦争へと突入する。
 アジアにおいては1937年に日中戦争が始まると、中国国民党と共産党と第2次国共合作が成立し、日本の軍事侵攻に共同で抵抗が始まる。

コミンテルン解散

独ソ戦が開始され、苦戦が続いたソ連で、1943年6月、英米との協調に踏み切ったソ連スターリンがコミンテルンの解散を決定した。

コミンテルンの解散

 1935年の第七回大会以来、コミンテルンの大会は開催されることはなかった。その後、コミンテルンはファシズムの台頭に対して、スペイン戦争で人民戦線政府を積極的に支援したが、イギリス・フランスは不干渉政策をとり続け、結局フランコ軍に敗れてしまった。この過程で、イギリス・フランスとソ連の関係は冷たくなっていった。ドイツはオーストリア併合を強行するなど露骨な侵略姿勢を強めたが、イギリスのネヴィル=チェンバレン宥和政策をとり1938年のミュンヘン会談でドイツのズデーテン地方割譲要求を容認し、1939年8月、スターリンがヒトラーと独ソ不可侵条約を締結すると、双方の不信感は決定的となった。

第二次世界大戦の戦局転換

 こうして1939年9月にヒトラードイツはポーランドに侵攻して第二次世界大戦が開始されたが、ドイツとソ連の提携は次第に雲行きが怪しくなってきた。特にフランスを降伏させたドイツがソ連の利害が対立するバルカン半島にドイツが侵攻したことは両者の関係を決定的に悪くし、ヒトラーはついに独ソ戦を決意、41年6月22日、突如ソ連に侵攻した。

連合国の形成

 そのため、ソ連は一転して西部からのイギリスのドイツ攻撃に期待せざるを得なくなった。イギリスも同調し、英ソ軍事同盟を成立させ、さらに英ソの首脳が発表した大西洋憲章にソ連が支持を表明、42年1月には連合国共同宣言がにソ連も署名し、連合国が形成された。

コミンテルン解散とその事情

 独ソ戦の激戦が続くなか、スターリンは、コミンテルンの解散を決定した。それは、連合国と協調する上で、従来資本主義諸国のなかに、ソ連共産党がコミンテルンをつうじて共産主義革命を起こすように仕組んでいると考えられ、ソ連に対する敵視の原因を除去する必要があると判断したからであった。しかしその裏の事情には次のような指摘もある。
(引用)1943年6月9日、コミンテルンの解散が執行委員会幹部会の名で発表された。ソ連のスターリンはその直前、解散の理由を、コミンテルンがモスクワの手先であるという誤解を捨てさせ、統一戦線をおしすすめ、共通の敵ヒットラーにたいする攻撃を容易にすることにあるとロイター記者にのべているが、事実は、戦争によってコミンテルンと弱体化した各国支部の連繋がうしなわれ、もはやコミンテルン自身の存在理由が全く失われてしまったことにあった。<菊地昌典『歴史としてのスターリン時代』p.273>