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共産党

主としてマルクス主義を標榜し、資本主義の打倒、労働者階級(プロレタリア)の解放と理想社会としての共産主義社会の実現をめざす政党。1848年のマルクスとエンゲルスによる『共産党宣言』を源流とし、レーニンの指導するロシアのボリシェヴィキが1918年に共産党と称して以来、各国で結成された。

 共産主義政党と言っても、国によって、あるいは成立過程の違いによってその名称には異なっている。一般にマルクス主義を発展させた共産主義(Communism)の実現をめざす政党が共産党と名なるケースが多いが、その名称には「社会主義」や「労働」あるいは「労働者」「労農」などをつける場合も多い。また、社会主義・社会民主主義政党との違いにも注意する必要がある。各国の共産党のなかで重要な動きをまとめると次のようになる。

共産党の結成

 1918年にロシア社会民主労働党の多数派であるボリシェヴィキロシア共産党に改称したのが始まりで、同年末にドイツ共産党など各国に共産党が生まれた。その理念は1848年のマルクス・エンゲルスの『共産党宣言』に源流がある。実質的な出発点は、レーニンがボリシェヴィキを組織した1903年とされている。

レーニンのボリシェヴィズム

 レーニンのボリシェヴィズムは共産党を大衆政党ではなく共産主義革命の最前線となる革命家集団と位置づけたので厳しい統制と民主集中制がとられた。また1919年にレーニンの指導で設立されたコミンテルン世界共産党ともいわれ、国境を越えた国際共産主義運動を展開し、各国共産党はコミンテルン支部の性格も持っていた。しかし、ソ連共産党はレーニン死後、世界同時革命を主張するトロツキーを失脚させ、一国社会主義をとるスターリンが権力を握った(1928年)。スターリンは一国社会主義の路線によりソ連の社会主義建設に向けて、工業化と農村の集団化を強硬する過程で次第に独裁色を強めた。レーニン、トロツキーに見られた国際共産主義運動は変質し、各国共産党はコミンテルンを通じてソ連共産党に従属する傾向が強まった。スターリンに敵対した多くの共産党員は「粛清」された。

ヨーロッパの共産党

 ドイツ共産党は第一次世界大戦中にドイツ社会民主党が戦争協力方針に転換したことに反対したローザ=ルクセンブルク、カール=リープクネヒトらによって結成されたスパルタクス団を母体として、1919年1月に結成された。同時にドイツ革命の渦中で蜂起を試みたが弾圧され、弱体化した。ヴァイマル共和国の中で勢力を挽回したが、ソ連共産党の強い影響を受けるようになり、社会民主党と対立、反共産主義を掲げるナチスが台頭した。
 フランス共産党は1920年12月、フランス社会党が分裂し、多数派が共産党を結成、インターナショナル・フランス支部として活動した。1930年代には反ファシズム統一戦線を結成、ファシズムの台頭と戦った。
 イタリア共産党は1921年、イタリア社会党が第3インターナショナル加盟を巡って分裂し、左派が結成した。翌年、ファシスト党のムッソリーニ政権が成立、共産党は非合法とされ地下活動に入った。
 なお、イギリスでもイギリス共産党が結成(1920年)されたが、労働組合は労働党(マルクス主義政党ではない。議会政治の中で労働者の地位向上を目指す穏健派)ににぎられていて大きな勢力にならなかった。またアメリカでもロシア革命の影響を受けて1919年にアメリカ共産党が結成されコミンテルンの指導で活動し、世界恐慌期に貧農や都市の下層労働者の中に支持者を得たが大衆的な組織となる前に弾圧を受けた。

アジアの共産党

 アジアの共産主義運動はコミンテルンの指導を受けて組織された。最初の共産党は1920年結成のインドネシア共産党で、翌21年に中国共産党が発足した。日本共産党は1922年に堺利彦、山川均らによって結成されたが非合法とされ、すぐに地下に潜った。1925年には普通選挙法が制定され、それによって行われた選挙で共産党系の無産政党が進出すると、治安維持法による弾圧が強化され、1928年の三月十五日事件で多くの地下の共産党員が逮捕された。これによって戦前の共産党活動は実質的に抑えこまれた。
 フランス植民地であったインドシナでは1930年にホーチミンが中心となってインドシナ共産党が結成された。

第二次世界大戦と共産党運動

 1929年、世界恐慌が起こり、労働者の経済状態が悪化したことに伴い、ドイツ共産党を始めフランス共産党イタリア共産党がそれぞれ勢力を伸ばすと、資本家や保守的大衆は共産党を危険視して、その対極にあるファシズムを擁護したため、その台頭がもたらされた。
 1933年にはドイツでヒトラーのナチスが政権を奪取し、ドイツ共産党は非合法とされてしまった。1935年にはコミンテルン第7回大会は人民戦線戦術に転換し、社会主義勢力やブルジョワ自由主義政党との連帯を打ち出し、ヨーロッパではフランスやスペインに人民戦線内閣が生まれ、共産党も協力する態勢をとった。しかし、1936年から始まったスペイン戦争では人民戦線内部で共産党とアナーキスト派、トロツキー派などの対立があり、フランコ軍に敗れる結果となった。
 中国での中国共産党と国民党の国共合作(第1次)が、1927年の蔣介石による上海クーデタで崩壊したが、1931年の満州事変からはじまった日本軍の侵略に対して次第にその復活を求める声が強まり、1937年の日中戦争勃発に伴い国共合作(第2次)が成立した。
独ソ不可侵条約の衝撃 しかし、1939年、ソ連共産党のスターリンがヒトラーとの間に独ソ不可侵条約を締結したことは、共産党がまったく世界観の違うファシズムと手を結んだことで、各国の共産党に衝撃を与え、統一戦線は混乱し、共産党と人民戦線派が国民的支持を拡大する大きな障害となった。

戦後の共産党

 第二次世界大戦後は、ドイツ支配から解放される際にソ連の力が大きかった東ヨーロッパ諸国に共産党政権が次々と誕生し、ソ連はコミンフォルムを結成したそれを統制しようとした。また東ヨーロッパ諸国は、ソ連がマーシャル=プランに対抗して設けたコメコンに加わり、いずれもソ連共産党の指導を受け入れる立場となり、コメコンでの経済的結びつきを強めて東ヨーロッパ社会主義圏を形成、さらに1955年にはワルシャワ条約機構が組織されて東西冷戦時代の東側陣営を構成することとなった。
 なお、共産党は東ドイツでは社会主義統一党、ポーランドでは統一労働者党、ブルガリア、ルーマニアでは労働者党、アルバニアでは労働党などと称した。
 アメリカでは、戦後の冷戦期の特に1950年代に、共産主義を危険視するマッカーシズムの嵐が起こり、自由な言論活動が厳しく弾圧される中でアメリカ共産党は衰退を良くなくされた。

共産主義運動の多様化

 中国共産党は国共合作のもと八路軍などの独自の軍隊で日本軍と戦い、1945年に日中戦争が終わると国民党との国共内戦(第2次)が再開され、激しい内戦が続いた。朝鮮では1945年に抗日戦で指導権を確立した金日成によって朝鮮労働党が結成された。またアジア各地では日本軍の撤退に伴いインドシナ共産党インドネシア共産党が独立運動の主体となり、ベトナムやインドネシアが独立した。
 1949年、中国共産党が国共内戦で勝利して、中華人民共和国を建設し、ソ連にならぶ共産主義の大国が出現したことは、戦後世界の大きな衝撃として迎えられた。しかしその反面、既存の共産党に対してはソ連共産党の圧力が強まり、次第に各国の共産党の連帯は薄れ、それぞれの地域事情から独自の行動をとる共産党も現れた。東欧の中にあってソ連と対立したユーゴスラヴィア共産党はコミンフォルムから除名され、独自の社会主義路線を構築した。1956年からスターリン批判が始まると、東欧の中にもソ連共産党から距離を置くものが現れたが、それに対してソ連共産党はチェコ事件に見られるような軍事介入をこない、同時に制限主権論(ブレジネフ=ドクトリン)を強調して指導権維持を図った。しかし70年代になると西欧の共産党の中には、議会政治との妥協を図るイタリア共産党などのユーロ=コミュミズムの路線などが現れ、多様化した。

共産党の現状

 共産党一党支配を実現した諸国は資本主義社会に対抗して東側世界を形成し、その中でソ連共産党は官僚的機構が巨大化するとともに、スターリンに対する個人崇拝という本来の共産主義とは違った面が強くなり、また共産党同士の中ソ対立(中ソ論争)などから混迷し、20世紀末にはソ連共産党の崩壊を契機として各国の共産党も大きな転機を迎えてた。また西側各国にも議会政治の中で共産党はそれぞれ党勢をのばしたが、冷戦終結後はいずれも後退を余儀なくされ、共産党の名称を捨てるものも現れた。現在、共産党として政権を維持しているのは中国共産党、朝鮮労働党、キューバ共産党のみである。

ユーロコミュニズム

 西ヨーロッパ各国の共産党のなかに、ソ連型の教条化、官僚制化した共産主義を脱却して、党内民主化を進め、複数政党制と議会制民主主義を認めようとするユーロコミュニズムという動きがでてきた。1973年、イタリア共産党書記長ベルリングェルは「歴史的妥協」と称してカトリック勢力(キリスト教民主党)との提携を打ち出し、さらに1975年にはスペイン共産党書記長カリリョと政策転換で合意し、77年にはフランス共産党もそれに加わった。社会民主主義とは一線を画し、階級政党としての使命を否定はしていないが、暴力革命や一党独裁制の主張はみられなくなった。イタリア共産党は91年に党名を「左翼民主党」に改めた。
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