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リットン調査団

満州事変の実情把握のため、1935年3~6月、国際連盟から派遣された調査団。日本の侵略行為と認定した報告書を提出した。

 1931年9月18日、満州事変が起きると中国は直ちに国際連盟に提訴した。国際連盟理事会は激しい議論の末、期限付きで撤兵する案を日本を除く全理事国で合意した上で、実情把握の必要から調査団を派遣することを決定し、12月にイギリスのリットン卿を団長に選任された。日本はこのような動きにもかかわらず、1932年1月に上海事変を起こし、中国本土に戦火を拡大、国際都市上海を攻撃して国際世論の反発を受けた。リットン調査団は1932年2月29日に来日、3月から6月まで、現地の柳条湖を初めとして日本、満州、中国各地で調査にあたった。調査団来日の翌3月1日、満州国の建国を宣言した。

リットン報告書

 リットン調査団は1932年10月2日に報告書を世界に公表した。報告書の骨子は、満州事変は日本の侵略行為であり、自衛のためとは認定できないというものであった。ただし、満州における日本の権益は認められるとして、そこに日本と協力する自治的な政権が成立することには容認できるとしていた。日本軍に対しては満州からの撤退すべきであるが、南満州鉄道沿線については除外された。
 このように、リットン報告書は必ずしも日本に全面的に不利なものではなかったが、軍部は侵略行為と断定されたことによって満州国も否認されたものとして強く反発し、国内にもそう宣伝した。リットン報告書が、満州事変は侵略であると認めながら、日本の満州での権益を認めるという妥協的な内容であったことは、その立場が欧米帝国主義にあり中国の独立や中国民衆の保護の立場にはなかったことを意味している。にもかかわらず日本がそれを受諾しなかったのは満州支配という実利よりも、国家の威信(あるいは軍の威信)を大事にしたためなのだろうか。多くの国民は松岡代表が決然と連盟総会を退場するニュース映像を見て快哉を叫んだであろうが、このときが日本が世界とアジアの中で孤立し本格的侵略国家として抜き差しならぬ歩みに入ったときであった。

日本の国際連盟脱退

 国際連盟はリットン報告書を受け、19人委員会が改めて審査、最終的に日本の侵略行為を認定し満州からの撤兵を勧告する決議案が、1933年2月24日の国際連盟総会で採択されることとなった。総会では日本1国が反対、シャム(後のタイ)が棄権、他の42ヵ国がすべて賛成し、日本の国際的孤立が明確になった。日本の国際連盟代表団松岡洋右は総会会場から引き上げ、3月27日に国際連盟脱退を通告した。
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ノートの参照
第15章4節 ウ.満州事変・日中戦争と中国の抵抗