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満州(満洲)

女真が自らを満洲(マンジュ)といったことから、中国の東北部をさす語句として使われるようになった。20世紀にロシアと日本が進出して対立し、日露戦争となった結果、日本は南満洲の権益を獲得、南満州鉄道と関東軍などを通じて「満蒙」に権益を拡張しようとして、中国との対立がもたらされると関東軍は満州事変を起こし、1932年、傀儡国家として満州国を設立した。日本は満州に開拓団として多くの移民を送り国内矛盾の解決を図った。満州国の成立によってソ連と境界を接することとなり、ノモンハン戦争に見られる国境紛争がしばしば起こった。第二次世界大戦末期、ソ連軍が侵攻、満州国は崩壊、多くの犠牲、残留孤児が生じた。

もとは民族名

 満洲とは、女真の間で信仰されていた文殊(モンジュ)菩薩にもとづき、自らの民族名を満洲(マンジュ)と言っていたことに始まるという(異説もある)。中国ではかつての金以来、女真は侵略者と見られていたので、中国支配を進める上で彼らは自ら民族名を変え、満洲人と自称するようになった。したがって満洲は、地名ではなく、民族名であったが、後に日本では彼らの拠点とした中国東北部さす地名として使われるようになった。本来は「満洲」であるが、省略形の満州をつかうことが多い。 → 満州文字
満州か満洲か 日本では「満州」が広く用いられ、「州」の字がつくことから、地名・地域名と誤解されることが多い。しかし本来は民族名であり満洲と書くのが正しい。満州はその省略形に過ぎないので、最近では教科書レベルでも「満洲」、「満洲事変」、「満洲国」とするものが現れている(実教出版、帝国書院など。山川詳説は現在も満州とする)。特に中国史の研究者からは「満州」は使うべきではなく、「満洲」とすべきであるとの主張が多い。もちろん従うべきであろうが、このサイトでは当面、混乱を避けて「満州」のままとする。

満州をめぐる日露対立

 清朝ではこの地に奉天省、吉林省、黒竜江省の東三省が置かれ、その地の満州が地名として意味を持つようになったのは近代以降であった。アジアでの南下政策をつよめたロシアは、義和団事件に乗じて満州を占領、その後も居座りを続けた。それに対して警戒心を強めたイギリスと日本は、1902年に日英同盟を締結、ロシアとの対立が深まり、ついに1904年日露戦争となった。戦争の結果1905年9月に締結されたポーツマス条約で、それまでロシアが持っていた南満州の諸権利を日本に譲渡することが定められた。この譲渡は「清国政府の承認」が必要とされていたので、日本政府は直ちに清朝と交渉し1905年12月に「満州に関する日清条約」を締結した。これによって日本の南満州支配が成立した。

「満州に関する日清条約」

 日本はポーツマス条約でロシアのもっていた遼東半島南部=関東州(旅順・大連)の租借権と南満州の鉄道の利権を継承した。その権利を清国に認めさせる必要があるので、外相小村寿太郎はまず9月、アメリカのセオドア=ローズヴェルト大統領に面会してその了解を得た上で帰国し、閣議に臨んだ。10月27に開かれた閣議(第1次桂太郎内閣)で、清国に対しては「満州に関する日清条約」(遼東半島租借権、中東鉄道建設など認めさせる内容)を締結する交渉に入ることを決定した。同時に韓国には保護国化を認めさせることが決まった。日本陸軍の参謀総長山県有朋も日露戦争で多大な犠牲を払って獲得した利権をより確実なものとし、ロシアが再び南下することに備えなければならない、と主張した。
 閣議決定に基づき、小村寿太郎は全権として清国に赴いた。閣議決定は「今回、露国と講和の結果満州の一部は帝国の勢力範囲に帰することとなれり」としたうえで、清国にロシアの遼東半島租借地と中東鉄道の譲渡を認めさせることは「絶対に必要なる条件」であり、万一清国が承諾しない場合は交渉を中止して「遼東租借地及び満州鉄道は現在のまま占拠するの決心」で臨む、とされていた。交渉は1905年11月17日から、北京で日本全権小村寿太郎と清国側軍機大臣総理外務部事務慶親王、北洋大臣袁世凱らで開始され、日本側はポーツマス条約のロシア権益の継承を認めることをふくめ、全11カ条の細部にわたる要求を提示、清国はそのほとんどを拒否し、別に日本軍の速やかな撤退などの清国側の要求を出した。22回に及んだ交渉の末、1905年12月22日にようやく「満州に関する日清条約」が締結された。それは結局、次の三カ条からなる短いものとなった。
  1. 清国は日露講和条約(ポーツマス条約)によるロシアから日本への利権の譲渡を承諾する。
  2. 日本は露清間の租借地及び鉄道敷設に関する原条約を遵守し、将来問題が生じた場合は随時清国と協議する。
  3. この条約は調印の日から発効し、2ヶ月以内に北京で批准書を交換する。
 本条約には12カ条の附属協定があり、それには、満州の開港・開市、鉄道守備兵・安奉線(安東~奉天間の鉄道)の経営、南満州鉄道と清国各鉄道との接続、鴨緑江右岸(満州側)森林伐採の共同経営など、露清間の原条約には規定されていない利権を日本が獲得した。その他日本は会議録への記載という形で、16項目の秘密附属取極で吉長鉄道の敷設その他の鉄道への出資、南満州鉄道に並行する幹線及び支線の禁止、松花江の航行権などを認めさせた。この「満州に関する日清条約」は1906年1月23日、北京で批准書が交換され、1月31日に公布された。<鈴木隆史『日本帝国主義と満州』上 1992 塙書房 p.83-90>

南満州鉄道の経営

 満州進出をめざしたのはロシア、日本だけではなかった。19世紀末の中国分割に参画したイギリスや、門戸開放を掲げて中国進出を狙うアメリカもまた、鉄道敷設とそれに伴う利権(鉱山の開発権など)を得ようと進出してきた。特にロシア、イギリス、日本の三国は鉄道敷設で争った。
 シベリア鉄道のゲージは標準軌ではなく5フィートの広軌であったが、これに対して日本とイギリスが朝鮮半島おおび満州に建設した鉄道は標準軌だった。シベリア鉄道とその支線の東清鉄道と、日英両国が建設した鉄道は相互に乗り入れできないため、20世紀初頭の東アジア国際関係の対立軸は、鉄道ゲージの対立でもあった。<井上勇一『鉄道ゲージが変えた現代史』1990 中公新書 p.11>
 ポーツマス条約で日本はロシアが持っていた東清鉄道支線の長春~旅順間の経営権の継承が認められた。1906年、日本はこの鉄道を運用する南満州鉄道株式会社(満鉄)を設立し、国策会社とし、満州開発の基本動線とした。それにたいしてアメリカが鉄道利権への参入を要求、さらに後には満州の軍閥張作霖や中国政府も満鉄並行線の建設など開始し、満州の鉄道経営は日本、中国、アメリカの対立の焦点となったく。日本にとっては、満鉄が国際標準軌であったのに対す、国内の鉄道が狭軌であったので、その違いをどうするかが長く問題となった。 → 日本の鉄道を参照

日露による満洲分割

 日露戦争の敗北によって、ロシアは南満洲の租借地・鉄道その他の利権を失ったが、東清鉄道と北満洲の広大な地域への支配権は依然として残していた。日本ではこのロシアが近いうちに再び南進し、日本に戦いを挑むのではないか、という観測が強かった。1906(明治39)年に山県有朋は『帝国国防方針』を提唱し、そこでも仮想敵国の第一をロシア、第二は清国だとのべている。日露戦争後も日本陸軍はロシアを仮想敵国の第一に置くことが続き、後の関東軍の設置はまさにそのためのものであった。
 しかし、国際情勢は日露戦争後に激しく変化していく。その要因の一つはヨーロッパで19世紀後半のビスマルク外交(体制)という秩序が崩れ、ドイツが世界政策の名の下で急速に力をつけ、イギリス・フランスを脅かすようになったことがあげられる。アジアでの南下政策に挫折したロシアは、バルカン方面に向かうことになり、ドイツ・オーストリアとの対立が想定される中、イギリス・フランスとの提携を進める。そのような中で、英・仏・露の三国協商が形成されていった。またアジアにおいてはアメリカが満洲への関心を強めていた。このような国際情勢の変化の中で、日露は一転して協調関係に転じ、1907年7月に第1次日露協約を締結する。ここでは北満州をロシアの、南満州を日本の勢力圏とし、外蒙古のロシア権益と韓国の日本権益をそれぞれ承認するという、植民地分割協定を行った。このような満蒙方面における日露の「棲み分け」は1917年のロシア革命でロシア帝国が消滅するまで続く。

日本の南満州支配の迷走

関東総督府 日本の南満州支配の中心は、旅順と大連の租借権と旅順から長春への南満州鉄道とその支線に関する権利であった。日本は旅順・大連を含む遼東半島南部の租借地を関東州と称し、関東総督府を置いた。関東総督は租借地と満鉄沿線の守備のための軍事権とともに、行政権も与えられ、初代総督には陸軍大将大島義昌が任命された。その指揮下にある2個師団の守備隊が後の関東軍の母体となるが、まだ関東軍とは称していない。
 日本が台湾、朝鮮半島、南樺太に次いで獲得した海外植民地(租借地と保護国を含む)となった関東州であるが、その統治にあたっては、日本の支配層の中にも、文官が統治して軍も指揮下に置く民政を行うという主張(伊藤博文、西園寺公望、加藤高明ら)と、軍人をトップに置き民政も行わせる軍政を主張(山県有朋、児玉源太郎ら軍の首脳)との対立があった。またイギリス・アメリカなど列強も、戦後であるにもかかわらず軍政色の強い関東総督府に対する批判もあった。
関東都督府 そこで伊藤博文等の主張により、1906年9月、関東総督府は廃止され、外務大臣が監督する関東都督府が設置された。関東都督は関東州を管轄し南満州鉄道を監督すつろともに駐屯部隊の統率も認められていたので、関東総督とほとんど変わることはなく、都督には大島陸軍大将が横滑りしただけだった。関東都督は外務大臣の監督下にあるとは言え、事実上は陸軍の影響力も強かった。関東州以外の満州には日露戦争後、日本人の居留地が増えていたが、そちらは外務省領事館の管轄であったので、当時の満州は、関東都督府・満鉄・領事館という三つの系統が司法、警察、行政にあたる「三頭政治」ともいわれる複雑な仕組みになっていた。しかも出先機関に背後には本国の外務省と陸軍の対立があるということで、その対立は表面化し、たびたび混乱した。

辛亥革命に伴う変化

 1911年、辛亥革命によって清朝が倒れる大きな変動が起こり、中華民国が成立したが南方を拠点とする孫文らの革命政府に対し、北京は袁世凱の次に軍閥政権が割拠するようになった。日本政府は建前は中国の統一と政治の安定を支援するとは表明したが、混乱に乗じて日本にとって有利な政権を支援しようと模索し、そのためさまざまな混乱が生じた。
軍閥・張作霖  満州には奉天を中心に張作霖の主導する奉天派が台頭し、北京での覇権をめぐって安徽派(段祺瑞)・直隷派(馮国璋・曹錕・呉佩孚ら)と激しく争った。特に張作霖は、もともと満州の広大な原野を駆け巡る馬賊集団を基盤として勢力を拡大し、奉天に独自の政権を樹立してたびたび北京をうかがうという、台風の目のような存在であったので、日本も満洲進出にあたり、その力を利用とした。
満蒙を生命線とする思想 日本政府は公式には袁世凱とその後継政権を交渉相手としたが、陸軍は中国大陸の動乱に乗じて実力で支配の拡大を図る(大義名分はロシアに備えるため)動きも強まり、民間には革命派に共鳴する人々も多かった。また中には大陸に渡って利益を上げようとする大陸浪人と言われる人々も増えた。これらに共通する心情として日露戦争で多大の犠牲を払って獲得した満州の利権を守り、それを拡張しようということがあった。そのような雰囲気の中から「満州・蒙古(あわせて満蒙)は日本の生命線である」という意識が軍部だけではなく、国民の中に広く定着していった。裏返すと、動乱が続く中国には自らを統治する能力がないのだ、と侵略を正当化する中国観が生まれていた。

第一次世界大戦と二十一カ条の要求

 第一次世界大戦が勃発すると、翌1915年1月、日本の大隈重信内閣は、中国の袁世凱政府に対し二十一カ条の要求を突きつけた。その第2項「南満州および東部内蒙古に関する件」の七ヵ条のなかで、旅順・大連南満州鉄道の期限を99ヶ年延長することなどを掲げた。
 日本は当時関東州、山東(ドイツ軍攻撃のため)、支那駐屯軍(義和団戦争以来天津に駐屯)など約6万を中国に派兵しており、受諾しなければ軍事行動に出るという最後通牒を出して圧力を加え、袁世凱政府は武力抵抗を諦めて1915年5月9日に日本人官吏の登用などを要求した第5項だけを除き、領土的・利権的要求にはすべて応じた。国内ではさかんに反対運動が起こりったが、政府はそのまま押に関してはし切り、5月25日に日本との間で山東半島についての「山東に関する条約」(ドイツ権益の継承を認める)と南満洲についての「南満洲と東部内蒙古に関する条約」を締結した。
南満洲と東部内蒙古に関する条約 ここで日本が獲得したのはかつてのロシア権益の継承だけでなく、それをうわまわるもので、次のような内容であった(ほぼ原文のまま)。
  1. 両国は旅順・大連の租借期限、南満州鉄道及び安奉鉄道に関する期限をいずれも99ヶ年に延長すべきことを約す。
  2. 日本臣民は南満洲において商工業の建物を建設するため、又は農業を経営するために必要な土地を商租することを得る。
  3. 日本臣民は南満洲で自由に居住往来し各種の商工業をその他の業務に従事することを得る。
  4. 日本臣民は東部内蒙古において支那国民と合弁に依り農業及び付随工業の経営をなさんとする時は支那国政府これを承認すべし。
<加藤陽子『満州事変から日中戦争へ』シリーズ日本近現代史 2007 岩波新書 p.27>
租借権の99ヶ年延長 二十一カ条要求の中の旅順・大連の租借権はロシアが1898年に25年間の期限で認められていたものを日本が継承したので、4年後の1923年には満期となる予定であった。日本政府も関東都督府も、その延長はどうしても獲得したいことであったといえるだろう。それが99年に延長され、1997年まで支配できることになったことは大きな意味をもっていたので、ただちに関東都督府の機構をそれに対応できるものに改革されることになった。問題は民政と軍政の区分を明確にすることであった。
 特に戦後、パリ講和会議で中国政府はその不当性を訴えたが、通らなかったため、1919年5月4日、中国民衆は五・四運動が起こり、中国の近代史の大きな転換点となった。中国政府も山東半島のドイツ権益の継承だけでなく、旅順・大連(関東州)のロシア権益である租借の延長も不当としてその返還を強く求めた(旅大回収運動)。日本政府はそのいずれも拒否したが、緊張は高まっていった。
シベリア出兵 日本政府及び日本軍が、南満洲に駐屯する軍隊を強化しなければならないと意識した背景には二つの事実があった。一つは対戦中の日本軍がロシア革命介入のために行ったシベリア出兵に満州駐留軍も加わったことであり、もう一つが1919年、朝鮮で日本の植民地支配に対する抵抗運動として三・一独立運動がおこり、朝鮮軍がその鎮圧に出動したことだった。東アジアの国際情勢に対応でき、植民地支配で力を発揮できる行動力のある軍隊を、現地におくことが急務とされたのだった。

関東庁と関東軍の設置

 1919年4月12日、それまでの関東都督府は廃止され、民政を担当する関東庁と軍政を担当する関東軍を分離して設置することが決まった。関東庁長官は文官があたることを原則として、関東州を管轄し満鉄の警務上の取り締まりにあたり、渉外事項に関して外務大臣の監督を受けることとなった。これによって伊藤博文が主張した関東庁を純然たる民政機関とすることが実現した。
関東軍 一方、関東軍司令部を設け、在満陸軍諸部隊を統率して関東州(遼東半島南部の旅順・大連を指す)の防衛、満鉄の保護にあたる、とされた。これによって関東軍は天皇の統帥権に直結して軍事行動を行う根拠を得ることになり、本国の政府の統制が及ばないことになった。また陸軍の機構では関東軍司令官は、陸軍大臣・参謀本部の指示を受けて行動するのが建前であったが、それは「区処」という軍隊独自の曖昧な規定がなされるのみで、独断専行が可能となる立場にあった。 → 関東軍の項を参照

中国情勢の変化

 南満州(関東州)と満鉄沿線は、日本が1910年に併合した朝鮮とともに、日本資本主義の成長にとっての市場、資源供給地として重視されるようになるにしたがい、その満洲支配拡大の尖兵としての関東軍も次第に侵略軍的な性格を強くしていった。
 新たに生まれた中華民国は軍閥の抗争が続き安定しなかったが、1919年10月、孫文中国国民党を結成して北方軍閥の一掃を掲げ、1921年には中国共産党結成されて、二つの新しい運動の核ができた。両者はソ連の後押しを受けて急速に接近して1924年には第1次国共合作を成立させた。1920年代は中国の新しい動きの胎動期であったが孫文は1925年3月に死去し、中国統一は蔣介石がその運動を継承した。
北伐の開始 蒋介石・国民党は1926年7月、北伐を開始し、北京では動揺した軍閥政権がめまぐるしく交代した。蒋介石は1927年4月の上海クーデタで共産党を排除し、第一次国共合作は破綻して北伐はいったん中断されが、1928年に再開して北上を開始した。日本は居留民保護を口実に介入し山東出兵を行った。1928年5月には北伐軍と日本軍が衝突、済南事件が起きたが、北伐軍は日本軍との全面対決は避けて迂回し、北京に迫った。この過程で、関東軍は一貫して奉天派張作霖を支持し、軍事顧問を送り、武器を与えるなどの支援を行っていたが、張作霖は満鉄平行線を建設するなど、からならずしも関東軍に従順ではなかった。関東軍の幕僚中に、中国全土の混乱に乗じ、張作霖を排除して、日本に有利な状況――親日政権の樹立など――を謀ろうという動きが芽生えた。

関東軍の謀略

 1928年6月4日、北伐軍に追われ北京を撤退した張作霖が、奉天に戻る途中の鉄道が爆破されて死亡するという張作霖爆殺事件が起こった。これは関東軍の参謀による謀略であったが、当時は「満州某重大事件」といわれるだけで国民には真相は知らされなかった。この謀略によって満洲に親日的な政権をつくろうとした関東軍のねらいは、張作霖の息子張学良が国民革命軍への帰順を表明したことで実現できなかった。
 事件の五日後、国民革命軍は北京に入城、北伐は完了して国民政府の中国統一が成った。アメリカを始めとする国際社会もこの政権を公認し、不平等条約の撤廃にも応じるようになった。満洲の東三省も中国の主権下に入ったので、中国は旅順・大連の租借権、南満州鉄道の経営権などの返還を日本に要求するようになった。このような日本にとって厳しい情勢の中で、特に関東軍の幹部は危機を募らせ、満州の利権を守る必要があると使命感を抱くようになった。そのころ、1929年②発生した世界恐慌が日本にも及び、不況が深刻になっていたこともあって、満州は国内の農民の貧困を解決する植民地として期待されるようになり、その支配の全満州への拡大が策されるようになった。こうして「満蒙は日本の生命線である」といった宣伝が盛んに行われ、国民の満州への想いを収斂させていった。

満州事変と満州国の建国

 1931年9月18日、南満州鉄道の一部が爆破されたことから、関東軍は全面的な軍事行動を開始、満州の各要地を占領し、その支配を全満州に拡大した。この満州事変は、関東軍の一部幕僚によって主導されたもので、日本政府は当初不拡大方針を決めたものの、次々と起こされる軍事衝突を口実とした戦線拡大を抑えることはできず、追認していった。
 関東軍の侵攻は全面的な軍事展開であって自衛の範囲と言うのは無理があったため、国際的非難を回避することをせまられた日本は、満州には占領地や植民地ではなく、「満州人」の自発的な国家建設を支援したという形にするため、1932年3月1日、新京(現在の長春)を首都として「満州国」を建国した。1932年9月15日には日本政府は日満議定書を締結して満州国を承認すると同時に、日本の特殊権益の承認、日本軍の駐屯、を認めさせた。
 国際連盟が派遣したリットン調査団が出した報告書は、一連の軍事行動は自衛行為とは認定できない、従って日本軍には満州鉄道沿線以外の満州からの撤退すべきであると勧告した。ただし満州での日本の一定の権益については認め、満州に自主的な国家が建設されることは容認していたので、必ずしも日本に不利な判断ではなかったが、日本は不服として1933年3月27日国際連盟を脱退した。

満州国と日中戦争

 満州には、日本から開拓団として多くの農民が送り込まれた。かれらは新天地を求めて移住し、満州(さらにその北辺のモンゴル地方も日本人・中国人・満州人・朝鮮人・モンゴル人の融和を図ったが、実態は日本人の強圧的な支配であったので、常に軋轢が繰り返された。
 満州事変から始まった日本の中国侵略は、内モンゴル地方と万里の長城を越えて華北にも展開され、それに対する中国民衆の抵抗も強まった。日本軍によって進められた華北分離工作は、華北各地での反日暴動を引きおこし、それらを取り締まるためにさらに日本軍の軍事行動は激しくなった。1937年には日中戦争となり、中国全土に拡大していった。
 満州国は、ソ連及びモンゴル人民共和国と国境を接することになったので、国境紛争が頻発するようになり、1938年7月には満州国南東部のソ満国境で関東軍とソ連軍が衝突し、張鼓峰事件が起き、翌1939年5月には、日ソ間の最大の軍事衝突であるノモンハン事件が起き、関東軍は大きな損害を蒙った。9月1日にドイツ軍がポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まったため、日ソ連の停戦交渉は棚上げとなった。

満州国の崩壊

 日本陸軍はソ連との対決に備え1941年9月には「関特演」と称する満州への大動員を行ったが、大勢は南進に固まり、東南アジア方面への進出が図られるようになる。日中戦争の収束のためと称して東南アジアに戦線を拡大した日本は、アメリカ・イギリスとの衝突へと軍が主導する異なり、同1941年12月8日真珠湾攻撃を実行して太平洋戦争の開戦となった。関東軍の部隊は次々と南方に転用されるようになって、満州の防備態勢は急速に弱体化した。しかし、太平洋戦争は1942年夏を転換点として敗色を強めていった。
 1945年8月9日に日ソ中立条約を破棄してソ連軍が満州に侵攻、関東軍はほとんど抵抗せず撤退し、満州国は崩壊した。関東軍など日本軍の将兵の多くはソ連に抑留され、シベリアでの過酷な捕虜生活を送ることとなり、民間の日本人も多くが犠牲となった。日本人の本土への引き上げは多くの苦難を強いられ、多くが満州孤児となって遺される結果となった。

その後の中国東北地方

 解放された満州は中国に返還されたが、1945年2月のヤルタ協定の秘密条項にもとづき、旅順租借権と大連の優越的地位はソ連が継承し、その後、1949年に中華人民共和国が成立すると中ソ間の懸案事項となったが、1955年、フルシチョフ政権下で中国に返還された。
 現在の中国では満州国を「偽満州」と称して国家として認めず、また満州という地名も使用を避け、「東北地方」と言われている。

NewS 現代の満州民族

 2007年5月3日の朝日新聞記事(世界発2007)によると、現代の中国で漢族に対する満州族(清朝以前は女真族)であることを自覚し、民族の歴史や言語に関心を持つ若者が増えているという。急速に発達したインターネットが満州族文化に接する機会を与え、北京では満州語の自主講座も開講された。現在、満州族とされるのは中国東北地方を故地とし河南、甘粛、北京、天津などに約1千万人が居住する。一般に漢語で生活し漢字を使用、人口の9割を占める漢族の名前を使い、服装や顔立ちでは見分けはつかない。満州語は清朝では公用語だったが、現在使える人はきわめて少ない。満州文字は16世紀末にモンゴル文字から作られ、北京の故宮(清朝の紫禁城)の門額などに今も見られる。
 満州族の歴史の見直しでは、例えば南宋の将軍岳飛は女真族の建てた金に徹底抗戦をしたことで「民族の英雄」と評価されているが、満州族も漢民族と共に中華民族を構成していることからすれば金と南宋の争いは国内の争いに過ぎず、民族の英雄という評価はあてはまらない。また太平天国は清末の農民反乱として中国革命の先駆とされているが、「滅満興漢」をかかげ多くの満州族を殺害した残虐なものであった。そして日中戦争時代、日本軍と満州国に協力した川島芳子(清朝王族の愛新覚羅一族であったが日本人を養父とし、日本軍に協力して男装して諜報活動に当たった)は裏切り者の漢奸として処刑されたが、清朝復興をめざして尽力したことを再評価すべきである、などなど、清朝や満州国に関わる歴史の解釈変更がネット上の発言に見られるという。一方で漢族のネットでは清朝支配下で漢人が服装や髪型を強制されたことをとりあげ、伝統的な「漢服」の復活を主張する者もいる。<朝日新聞 2007/5/3 記事およびキーワードより>