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満州国

満州事変を起こした関東軍が中心となり、翌1932年、中国の東北部に新たに建国した。実態は関東軍の傀儡国家であった。

 満州事変で中国軍との交戦状態を作り上げた関東軍は、戦争目的を中国政府の分裂、混乱状態では満州地域を統治できないとして、その地の民族を独立させることに置き、翌1932年3月1日、清朝最後の皇帝宣統帝であった溥儀を執政とし、新京(現在の長春)を首都として満州国の独立を宣言させた。この新国家は、漢人・満州人・朝鮮人・モンゴル人・日本人の「五族協和」と「王道楽土」を掲げ、独立国家であることを謳ったが、実態は日本の関東軍が軍事面だけでなく、行政面でも大きな権限をもつ、傀儡国家であった。 → 満州 東三省
 日本国内でも犬養毅政友会内閣は関東軍主導の満州国建国に批判的であったが、5月、右派の軍人らが五・一五事件で犬養首相を殺害、政党政治は終わりを告げ、軍部主導のファシズム体制へ急傾斜していった。そして、9月、日本政府は満州国政府との間で日満議定書を締結して満州国を承認すると同時に、日本軍の駐屯、日本の特殊権益の承認、日本人官吏の任用などを取り決めたが、国際的な承認はほとんど進まなかった。

日本の国際連盟脱退

 中国政府は国際連盟に対して、日本の侵略行為であることを提訴、それを受けてリットン調査団が派遣され、1932年3月~6月、現地調査も含めて調査が行われた結果、10月に日本の侵略行為を認定する最終報告書を提出した。1933年2月、国際連盟がリットン報告書を受けて、総会において日本に対する撤兵勧告案が、42対1で可決されると、日本代表松岡洋右は総会を退場した。翌3月日本は国際連盟脱退を通告した。こうして満州国建国は、国際社会で認められず、日本は自ら国際的な孤立の道を選ぶこととなった。
 翌1934年、満州国は帝政を採用することとなり、溥儀は初代皇帝として即位した。
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ノートの参照
第15章4節 ウ.満州事変・日中戦争と中国の抵抗