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ベルリン分割管理

第二次世界大戦でドイツが敗北した結果、国土は米英仏ソ四国によって分割占領され、ベルリンは同じく四国によって分割され共同管理下に置かれた。

 ドイツの首都ベルリンは、ナチス=ドイツ崩壊後、ドイツ国土が米英仏ソ分割占領された結果、ソ連占領地域内に位置することになった。そのベルリンに対しては、1945年6月5日、連合国の米・英・仏・ソ「四国宣言」で、「大ベルリン地区の行政は、連合国間機関によって指導される。この機関は、四国の司令官によって構成され、管理理事会の指導のもとに任務にあたり、四司令官の一人が交替で首席司令官の役を果たす。司令官は、事務官のスタッフによって補佐され、スタッフは地元のドイツ官庁を監督、管理する。」と定められた。こうしてベルリンはソ連占領地域内の浮かんだ島のような状態となり、四ヵ国によって共同管理されることになった。しかしこの段階ではあくまで共同管理であり、分割されていたわけではなかった。勘違いしてはいけないことは、この段階ではいわゆる「ベルリンの壁」なるものは存在せず、東西ベルリン市民は自由に行き来出来ていた。

早くも始まった米ソ対立

 しかし直後の6月9日にはソ連はその占領地区に在独ソ連軍政部(SMAD)を設置し、管理理事会に諮らず独自の命令を発するようになった。アメリカ・イギリス軍は自国の管理区域外であるザクセンとチューリンゲンまで進出していた。チャーチルは対ソ発言力を維持するため、アイゼンハウアー司令官にその地域の兵力を残すように要請したがアメリカ兵の帰国を急ぎたいアイゼンハウアーは四国宣言を守り、撤退させることにした。しかし、ソ連軍がベルリンで独自の動きをしているので、急遽ベルリンに派兵し、西ベルリンを占領した。すでにソ連はベルリンの面積で45.6%、人口で36.8%をしめる地域を占拠、ソ連に亡命していたウルブリヒトなどドイツ共産党員を中心とした全ベルリン市政府を樹立した。<W.マーザー『現代ドイツ史入門』講談社現代新書 1995 p.20~24>

分割管理から分断へ

 1948年6月の西側の通貨改革強行を機にソ連がベルリン封鎖に踏み切ったときから管理理事会は機能しなくなり、ドイツの東西分裂が確定した。翌1949年に西側管理地域にドイツ連邦共和国(西ドイツ)が、ソ連管理地域にドイツ民主共和国(東ドイツ)がそれぞれ成立し、ドイツの東西分断が確定した。ベルリンも東西地区に分かれたが、50年代には自由に行き来出来る状態であった。しかし、次第に経済状態で西ベルリンの発展が明らかとなり、東ベルリンからの西ベルリンを通しての西側への亡命が増加すると、1961年に東ドイツ政府は東ベルリンの境界に「ベルリンの壁」を築き、ベルリンは東西に分断され、自由な往来が禁止された。こうしてベルリンは東西対立の象徴として分断され、その状態が1989年のベルリンの壁崩壊まで続く。ようやく1990年のドイツ統一によって、ベルリンは首都としての機能を回復した。
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ノートの参照
第16章1節 ア.戦後の国際政治・経済秩序