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オーデル・ナイセ線

第2次世界大戦後のポツダム協定でドイツとポーランドの暫定国境とされた、オーデル川とその支流ナイセ川にそった線。

 オーデル川とその支流ナイセ川を結んだ線のことで、現在のドイツとポーランドの国境にあたる。第二次世界大戦前、1937年にはドイツ帝国はこの線よりも東のポーランド側に大きく食い込んでいた。また、飛び地という形で旧プロイセン領のダンツィヒ(現グダニスク)やケーニッヒスベルク(現カリーングラード)周辺もドイツ領であった。ついで全ポーランドを占領したナチスドイツに対し、東部戦線で接したソ連はスターリングラードの戦い以後反撃に移り、徐々に追いつめ、ポーランド領内に進軍した。それ以来、戦後のポーランド国境をどこに策定するかは、連合国、特にイギリスとソ連の間の大きな意見の相違点となり、テヘラン会談ヤルタ会談の主要な取引案件となった。その中で結局両陣営の妥協点となった、ポーランド西部国境がオーデル=ナイセ線であった。なおポーランド東部戦線は、ポーランドが1920年のソヴィエト=ポーランド戦争で獲得した西ウクライナや白ロシアをソ連に返還する形となった。

ポツダム協定で暫定国境

 1945年のポツダム協定でドイツの東部国境は暫定的にオーデル・ナイセ線とされ、それはドイツとの講和条約が締結されるまでの暫定的な国境であった。しかし、オーデル・ナイセ線より東側に居住していた多数のドイツ人は強制的にドイツ領内に移住させられることになった。その数は最終的に1100万人にのぼるとされる。
 しかしドイツが東西に分裂したため講和条約は締結されず、事実上のドイツ・ポーランドの国境として固定化された。

ブラントの東方外交で確定

 戦後の西ドイツ政府は当初はこの国境線を認めず、統一後にさらに東に拡大(旧ドイツ領の復活)を実現すべきであるという意見も根強かった、1970年代の社会民主党ブラント首相は「東方外交」をかかげてソ連・ポーランドとの和解を実現した際、オーデル・ナイセ線を国境として認め、1972年の西ドイツ=ポーランド国交正常化条約でも確認された。
 1990年10月3日のドイツ統一に際しても、オーデル・ナイセ線を含むすべてのヨーロッパの現状の国境を尊重することを表明した。国際世論の一部にも統一ドイツが領土の復活を主張するのではないかという懸念があったが、今のところそのような気配はなく(一部ネオナチといわれる右翼にはそのような主張もあるようだが)、オーデル=ナイセ線がドイツ東部国境として安定している。
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ノートの参照
第16章1節 ア.戦後の国際政治・経済秩序