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ベルリン封鎖

東西冷戦のなか、1948年6月、西側の通貨改革に反発したソ連がベルリン封鎖を実施した。孤立した西ベルリンに対し、アメリカは大空輸作戦で物資を投下し、危機を救った。

 東西冷戦が深刻化する中、4カ国分割占領の下に置かれていたドイツで、1948年6月、西側(アメリカ・イギリス・フランス)が、ドイツの三国占領地域の通貨改革を実施した。それに対して反発したソ連が同1948年6月24日、分割管理されていたベルリンの西側管理区域である西ベルリンを封鎖した。これは東西冷戦の初期の象徴的事件となった。当時、ベルリンは、ソ連占領地区に含まれ、市街も西側諸国管理地区と東側管理地区に分かれていた。封鎖前は西ドイツから陸上の道路や鉄道、空路を利用して入ることが出来た。

米ソ衝突の危機

 ソ連は西ベルリンに新通貨ドイツマルクが導入されるとだたちに西ドイツからベルリンにつながるすべての道路・鉄道・水路を閉鎖した。ベルリンは4ヵ国の共同管理とされていたが、全体ではソ連占領地域内にあるので、スターリンは閉鎖によって西側三国管理地区(西ベルリン)への食糧・石炭・医療用品・生活用品をストップしてアメリカ軍など西側の占領部隊が撤退せざるを得なくなると考えた。これに対して米軍司令官クレイ将軍は、物資の空輸による補給を決意、「陸の孤島」西ベルリンへの空輸を実施した。このアメリカ空軍による「大空輸作戦」は6月末より15ヶ月にわたり延べ27万回、総輸送量183万トンに達し、西ベルリンの市民生活と占領軍を守った。
 世界は米ソの全面対決への展開を恐れたが、ソ連のスターリンが譲歩し、国連の場で両国外相による交渉が行われ、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)(西ドイツ)が樹立された直後の1949年5月11日、ベルリン封鎖を解除した。 → ベルリン問題
注意点 ベルリン封鎖(1948年6月~49年5月)と「ベルリンの壁」の建設は別なことなので注意しよう。ベルリンの壁とは、1961年にソ連および東ドイツ当局が、東ベルリンから西ベルリンへの脱出者の増加を食い止めるために行ったことであり、1989年11月まで東西対立の象徴として存続した。
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