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サンフランシスコ講和会議

1951年9月、日本とアメリカなど西側諸国との第二次世界大戦の講和会議。サンフランシスコ平和条約条約が締結され日本の主権回復が認められた。

 朝鮮戦争の最中の1951年9月4日からアメリカのサンフランシスコ市内オペラハウスで開催された、第二次世界大戦連合国の対日講和会議。日本以外に連合国51ヵ国が参加、日本代表は吉田茂首相。実態は講和問題を話し合う会議ではなく、調印のための儀式に過ぎなかった。まずトルーマン大統領が演説し、「和解」とともにアメリカ国民はパール・ハーバーを記憶していると述べ、両国の友好には努力が必要と強調した。

ソ連の主張

 ソ連代表のグロムイコは中国(北京)代表の参加問題を取り上げ、ポーランドとチェコスロヴァキアが同調したが、議長(アメリカの国務長官アチソン)は議題と関係がないと却下した。グロムイコはさらに満州・中国全土・台湾に北京政府の主権、樺太・千島に対するソ連の主権をそれぞれ認めること、小笠原・琉球は日本の主権が及ぶべき範囲であること、日本にはいかなる国の軍事基地も置かないこと、そのかわり日本に自衛に必要な軍備として地上軍15万、海軍2.5万程度の軍隊を提案した。この提案は受け入れられず、ソ連、ポーランド、チェコスロヴァキアの三国は会議の結論としての日本との講和条約であるサンフランシスコ平和条約に署名しなかった。

平和条約の締結

 会議は8日に終わり、ただちにサンフランシスコ平和条約に各国が署名したが、ソ連・チェコスロヴァキア・ポーランド三国は署名しなかった。また当時、中国には大陸の中華人民共和国と台湾の中華民国が並立していたが、アメリカは後者、イギリスとソ連は前者を承認しており、代表権で紛争の原因となるのを恐れたアメリカが双方を招聘しなかったので平和条約に加わっていない。インド・ビルマは中国代表権問題などに対する不満から会議に参加しなかったので日本との講和は遅れた。
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ノートの参照
第16章2節 ア.朝鮮戦争と冷戦体制の成立