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トルーマン

アメリカ合衆国第33代大統領。1945年4月、フランクリン=ローズフェルト大統領の病死により、大統領に昇格。民主党。原爆使用を決断し、第二次世界大戦を終結させた。1948年に大統領に選出され、戦後の冷戦下の西側陣営を主導、朝鮮戦争などに対応した。内政では「フェアディール」を提唱したが、マッカーシズムの横行を許し、次期大統領選挙には出馬せず共和党アイゼンハウアーが当選、共和党政権に交代した。

トルーマン
Harry S. Truman
1884-1972
 アメリカ合衆国で、民主党フランクリン=ローズヴェルト大統領のもとで副大統領であったが、ローズヴェルト死去によって1945年4月、アメリカ合衆国大統領に昇格した。

第二次世界大戦の終結

 1945年7月17日からのポツダム会談に臨んで、連合国代表のイギリスのチャーチル(途中からアトリーに交替)、ソ連のスターリンの三者と戦争の終結と対日政策をについて協議し、1945年7月26日ポツダム宣言によって日本に無条件降伏を勧告した。日本政府が勧告を無視したことにより、広島・長崎への原子爆弾投下を8月6日、9日に実行した。しかし、トルーマンはポツダム宣言発表前の7月25日に既に原爆投下を命令していた。原爆によって日本がポツダム宣言を受諾し、無条件降伏したので、第二次世界大戦を終結させたアメリカ大統領となった。

トルーマンと核兵器

 トルーマンはアメリカ大統領として広島・長崎に原子爆弾を投下することを決断した人物であり、その責任を負うべき事は間違いない。ただし、個人として核兵器の使用を主張したかどうかについては分かっていないようだ。原爆の開発はすでに先任のフランクリン=ローズヴェルトの時に始まっている。その使用を決断するにあたっては軍が主導権を持っていたようで、原爆投下の場所、日時の決定は(天候にも左右されるので)軍が判断した。
(引用)しかし、原爆投下後になってトルーマンは、軍に委ねるにはあまりに重大すぎると気づいた。将軍レスリー・グローブスが1週間以内に3発目の原爆が準備できると将軍ジョージ・マーシャルに書き伝えると、マーシャルは「大統領の承認なしには日本に対して放てない」と即答している。3番目の原爆は使われることがなかった。大統領の専権がここに生まれ、それ以来、核兵器は「大統領の兵器」として知られるようになる。トルーマンは「威勢のいい陸軍中佐に、原爆をいつ使うのかを決めて」ほしくないと国防長官ジェームズ・フォレスタルに話した。商務長官ヘンリー・ウォレスも、3発目の原爆による犠牲者が「さらに10万人とは恐ろしすぎる」とトルーマンが考えていたことを日記に記している。<W.ペリ-/T.コリーナ(田井中雅人他訳)『核のボタン』2020 朝日新聞社 p.35-36>
 トルーマン政権では1946年に原子力法が制定され、原子力兵器の文民統制を確立した。トルーマンは「自由な社会においては、文民が軍人よりも超越し、適切な原子力の管理は文民の手にある」とのべ、原子力法は核兵器の研究や製造を軍ではなく大統領と文民の官僚機構の管理下に置いた。またトルーマンは核兵器の国際管理を考えており、アメリカは国際連盟の原子力委員会で核の国際管理を提唱した。しかし、その後、米ソの不信感が高まり、トルーマンの構想は実現しなかった。 → アメリカの核実験・核開発

民主党政権を継承

 トルーマンはミズーリ出身で、民主党ではめだたない政治家であったが、党内のニューディール派と保守派の妥協によってF=ローズヴェルト大統領の副大統領に選出された。大統領の急死によって昇格し「偶然による大統領」と言われ、その手腕は未知数であった。議会では多数派であった共和党は巻き返しを図り、ニューディール政策政策の柱の一つであったワグナー法を改めて労働運動を抑えるため、1947年にタフト・ハートレー法を制定した。同年のトルーマン=ドクトリンでは東側の封じ込めを提唱し、冷戦を固定化させたが、それは対ソ強硬派、穏健派両派から批判され、トルーマンの大統領再選は困難とみられていた。

トルーマンの奇跡

 ところが、1948年の大統領選挙では、大方の予想を裏切りトルーマンが当選、「奇跡」といわれた。それは南部民主党が、トルーマンが掲げた黒人差別の撤廃に不満であると脱党して州権党をつくったことで、かえってトルーマンの革新性が明確となり、また共和党もトルーマンを個人攻撃したがその政策の内容は大差無いものに過ぎなかったからであり、またトルーマンが市民的権利の保障、社会保障制度の拡大などを大衆に訴えるため全国を汽車でめぐる選挙運動を展開した結果だった。<ビーアド『アメリカ政党史』p.191-192 斉藤眞執筆部分>

冷戦の開始

 第二次世界大戦後は、ソ連=共産圏との厳しい対立の時代である「東西冷戦」体制を現出させた。1947年のトルーマン=ドクトリンで共産圏に対する「封じ込め政策」を進めた。
朝鮮戦争 1950年朝鮮戦争が勃発すると、かつてナチスのズデーテン割譲を傍観し大戦に発展してしまったことを反省するという理由で、即座に米軍の派遣を決定した。しかし、現地のマッカーサー司令部が原爆使用、中国本土爆撃を主張すると、イギリスなどの反対もあってマッカーサーを解任した。朝鮮戦争は53年に休戦となった。

国内政治

 国内政策では、F=ローズヴェルトのニューディール政策政策を継承し、「フェアディール」(公正な扱い)を掲げ、再選されて1949~53年まで務めた。選挙で掲げた最低賃金の引き上げ、住宅政策、社会保障の拡大などは実現させたが、当時の議会は反対党の共和党が多数を占めていたため、市民的権利の保障、タフト=ハートレー法の廃止は実現できなかった。
マッカーシズム 内政で見るべき成果を上げることはできないまま、朝鮮戦争が勃発、東西対立が深まるという国際情勢の緊迫から、アメリカ国内でも一挙に保守的な傾向が強まり、共産主義への警戒心が声高に語られるようになった。このような反共ムードを背景に、1950年2月ごろからマッカーシー上院議員が悪辣なデマをまきちらすマッカーシズムが横行、「赤狩り」(共産主義者摘発)が行われ、多数の犠牲を出した。
 1952年の大統領選挙には出馬せず、民主党の後継候補スティヴンソンが共和党のアイゼンハウアーに敗れ、アメリカは1933年以来の民主党政権が終わり、共和党政権に交代した。

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