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イラク戦争

2003年、米ブッシュ(子)大統領がイラク攻撃に踏み切り、米軍主体の「有志連合」軍がイラクに侵攻、サダム=フセイン政権を倒した。しかしイラク情勢はその後も宗教対立などが続き、安定していない。

 2003年3月、アメリカ合衆国G.W.ブッシュ(子)政権が、イラクが大量破壊兵器を保持しているとして空爆および地上軍によって侵攻し、そのサダム=フセイン政権を倒壊させた戦争。アメリカ合衆国は国連安保理決議に基づかず、「テロとの戦争」の一環として、イギリスなどの「有志同盟」による軍事行動として実行した。5月には戦闘が終了、後にフセイン大統領を拘束し、新たなイラン政府も成立したが、その後もイラン情勢は安定せずにテロ活動がやまず、アメリカ軍・イギリス軍などが依然として駐留を続け、問題は長期化している。 → 冷戦後のアメリカの外交政策

開戦の経緯

 2001年9月の9・11同時多発テロ以降、テロとの戦争を宣言、アフガニスタンを攻撃してタリバン政権を倒したアメリカ合衆国のブッシュ政権は、さらに2002年1月にイラク・イラン・北朝鮮を「悪の枢軸」と名指しし、世界平和に対する脅威と人権抑圧を続けているとして非難した。特にイラクは1991年の湾岸戦争後、フセイン政権は経済制裁を受けながら核開発疑惑に対する国連の査察を拒否しているとして、査察受け入れを強く要求した。一方のイラクのサダム=フセイン大統領は、湾岸戦争後国内の反対勢力を厳しく弾圧し、ますます独裁権力を強めていた。
大量破壊兵器の開発を口実に 2002年7月、ブッシュ大統領は「イラクは排除されなければならない」と宣言、核査察の拒否が国連決議違反にあたることをその理由とし、パウエル国務長官が盛んに国連の場でイラクを糾弾した。11月8日「国連決議1441号」が採択され、「1週間以内の査察を受け入れと30日以内にすべての大量破壊兵器に関する情報を開示」など、厳しい条件がイラクに提示された。サダム=フセイン大統領はしぶしぶ査察受け入れを表明、査察団を受け入れたが、2003年1月の中間報告は「大量破壊兵器」の確証は得られなかった。しかしアメリカは疑惑を払拭できないとして武力行使を決意、イギリスは同調したがフランス、ロシア、中国などは査察継続を主張して国連安保理は意見が一致しなかった。しかし、ブッシュ大統領はイラクにおける人権抑圧とアルカーイダなどテロ組織との関係が強いことなどを理由として先制攻撃論を掲げ、3月19日にフセイン大統領とその一族の国外退去を求め、それが実現しなければ軍事行動を行うという最終通告を行い、フセインが応じなかったため翌日、空爆を開始した。

イラク戦争の背景

 国際的な非難にもかかわらず、アメリカ合衆国のブッシュ政権がイラク攻撃に踏み切った理由については、公式には「大量破壊兵器の隠匿」が「国連決議」に違反するということとされているが、その後、大量破壊兵器の存在は証明されておらず、アメリカ政府もすでに破棄されていたことを正式に認めた。また国連決議についても、フランス・ドイツなどは査察の継続を主張して反対したため、その軍事行動は国連の平和維持活動(PKO)でも、国連決議による多国籍軍でもない、アメリカ軍とイギリス軍など30数ヶ国の「有志連合」による一種の集団的自衛権の行使という形をとらざるをえなかった。その背景には、政権内の新保守主義(ネオコン)といわれる勢力(国防長官のラムズフェルドや、ブッシュ政権を支えていたウォルフォヴィッツ、ボルトンといった人たち)が台頭し、冷戦終結後のアメリカ合衆国の単独行動主義(ユニラテラリズム)が強まった現れと見られる。また、穿った見方としては、アメリカ合衆国が中東での石油資源の独占を狙ったものであり、フランス、ロシアが反対したのはフセイン政権と石油利権を通じて結びついていたからだという説もある。

戦争の経緯

 2003年3月20日、米軍はバグダードを空爆、ピンポイントでサダム=フセインの殺害をねらったが失敗した。アメリカ合衆国のもくろみはサダム=フセインさえ殺害すれば、イラク国民が起ち上がるであろうという楽観的なものであった。しかし、フセインはその後TVに顔を現して健在ぶりをアピール、同夜アメリカ軍とイギリス軍はクウェートから陸上部隊を侵攻させ、空爆も本格化させた。イラク軍は想定以上の抵抗があったが、アメリカ軍は劣化ウラン弾やクラスター爆弾を投入してその抵抗力を抑え、4月4日にはバクダードに突入、9日には市民とアメリカ軍の手によってサダム=フセイン像が引き倒されて、フセイン政権は倒壊した。5月1日にはイラク軍の組織的な抵抗は終わり、ブッシュ大統領は勝利宣言を行った。サダム=フセイン自身はその後も潜伏を続け、同年12月にようやく捕捉された。2005年10月からイラク高等法院で裁判に付され、2006年12月に死刑判決、ただちに処刑された。

イラク戦争と日本

 アメリカ軍のイラク侵攻直後に小泉首相は支持を表明。自衛隊派遣の検討に入り、本格的な戦闘の終了後の7月に「イラク特措法」が成立し、2004年1月に陸上自衛隊・航空自衛隊を、「非戦闘地域」に限定した人道的復興支援を目的として派遣した。4年間の時限立法であったので、2007年7月に2年間延長された。この間、陸上自衛隊は2006年7月に撤収し、航空自衛隊は2008年度中に撤退する予定とされた。

Episode イラク博物館、6年ぶりの再開

 サダム=フセイン政権が崩壊した03年4月、無政府状態に陥ったバグダードでは略奪・強盗が横行し、イラク国立博物館も襲撃の対象とされた。約1万5千点が略奪され、密売目的で外国に持ち出された。こうしてメソポタミア文明以来のイラクの貴重が文化財が離散するという事態となったが、その後、ヨルダン、シリア、アメリカなどから約6千点が返還され、2009年2月に博物館は部分的な再開にこぎつけた。準備不足なのに一部再開に踏み切ったのは、治安回復をアピールする政府的決定だ、との超えもある。<朝日新聞 09.02.25朝刊>
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