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湾岸戦争

1991年1~2月、クウェートに侵攻したイラクに対しアメリカ軍主体の多国籍軍が攻撃をくわえた戦争。冷戦終結後の地域紛争が深刻化した。

 1990年8月のイラクの独裁権力を握るサダム=フセイン大統領は、突如としてクウェート侵攻を開始、国際世論の反発が高まり、それを受けて国連はただちに安保理が撤退勧告を行い、さらに経済制裁を決定した。イラクが撤退に応じず、「クウェートを19番目の州とする」と宣言して併合したため、アメリカのブッシュ大統領は武力行使を決定し、多国籍軍を編成してイラクを攻撃した。空爆が始まるとイラクはイスラエルに向けてミサイルを発射してパレスチナ問題との「リンケージ」をはかったが、アメリカがイスラエルの反撃を自重させ、中東全体の戦争に拡大することはなかった。戦闘はほぼ100時間で決着が付き、イラクが国連決議を受け入れる形で敗北し、クウェートから撤退した。戦後はサダム=フセイン政権は存続したものの、イラクは多国籍軍の監視下におかれ、厳しい経済制裁下におかれることとなった。 → イラク戦争

湾岸戦争の影響

 1980年代までの地域紛争では何らかの形でアメリカとソ連という2大国の対立、つまり冷戦が影を落としていたが、この湾岸戦争ではソ連もアメリカを支持し、先進国が一致し「国連決議」のもとに動いたことが大きな特徴であった。冷戦後の世界において、アメリカが唯一の軍事大国として行動するという状況がここから始まった。

湾岸戦争と日本

 日本は湾岸戦争に際して、多国籍軍に加わることはなかったが総額110億ドルの資金を提供するという経済的支援を行った。この額は国民一人あたり約1万円に相当する巨額であったが、国内から日本はお金の提供という貢献だけでいいのか、「血を流す」貢献も必要なのではないか、という議論が持ち上がった。自民党政府はそれらの声に押されて「自衛隊の海外派遣」の検討を開始、湾岸戦争の陸上戦闘は終わっていたが、同年6月、ペルシア湾に海上自衛隊の掃海艇を派遣した。これは最初の自衛隊海外派遣であった。さらに、1992年には国連平和維持協力法(PKO法)が成立し、国連の平和維持活動(PKO)への参加の道が開かれ、カンボジア内戦への自衛隊の派遣、アメリカ軍のアフガニスタン攻撃に際してテロ特措法による海上自衛隊のインド洋給油活動、2004年にはイラク戦争での陸上自衛隊の派遣が行われた。戦後一貫して専守防衛に徹していた日本が、初めて自衛隊を海外に出すという転換を遂げ、「国際貢献」という美名の下に大転換がはかられたのが湾岸戦争の日本にもたらした影響であった。  → 冷戦後のアメリカの外交政策 
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