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東南アジア諸国連合/ASEAN

1967年、ベトナム戦争に対応して東南アジア諸国5カ国が結成した、反共軍事同盟として発足。ベトナム戦争終結の70年代後半から、地域経済の発展をめざす、経済協力機構に変質した。現在も東南アジアの経済の安定的発展、地域紛争の解決などにとって重要な存在となっている(現在は10カ国が加盟)。

ASEAN加盟国
 東南アジア諸国連合、略称ASEAN(アセアン) Association of South-East Asian Nations  は、1967年8月8日タイ(5)インドネシア(6)マレーシアフィリピン(8)シンガポール(3)の5ヵ国の外相がタイの首都バンコクに集まり、「バンコク宣言」を発表して結成した地域協力機構である。発端はベトナム戦争の深刻化の中で、共産主義勢力の台頭したベトナム、ラオス、カンボジアの三国に隣接するタイが、強い危機感を抱き、共同防衛を呼びかけたことに始まる。それに対して、親米反共を掲げインドネシアのスハルトやフィリピンのマルコスなどが同調し、共産主義の東南アジアへの浸透を警戒し、アメリカのベトナムにおける軍事行動を支援することで一致した。スハルトやマルコスは開発独裁体制をとり、経済開発を進めていたが、当初、東南アジア諸国連合は経済協力よりも軍事同盟という性格が強かった。

反共産主義軍事同盟として発足

 東南アジア諸国連合の結成を主導したのはインドネシアで、1965年9月30日の共産党系軍人による九・三〇事件のクーデタを鎮圧して権力をにぎり、翌年にスカルノを失脚させてインドネシアで独裁的権力をにぎったスハルトであった。
 東南アジア諸国は、マレーシアがボルネオの一部を含めて成立したことから、インドネシア・フィリピンと対立し、とくにスカルノ政権は国際連合を脱退してマレーシア侵攻の姿勢を示すなど、地域紛争が絶えなかった。また、インドシナ半島ではベトナム、ラオス、カンボジアでの共産主義勢力の台頭とそれを阻止しようとするアメリカとの間でベトナム戦争が始まり、タイ、マレーシアなどは共産化を権力側の共通の危機感として有していた。
 そのような中、九・三〇事件でインドネシア共産党を徹底的に弾圧し、スカルノに代わって登場したスハルトは反共勢力の救世主と見られた。またシンガポール1965年8月、マレーシアから分離独立した直後であり、小さな独立国家を維持していくためにもリー=クアンユー首相にとっては東南アジアの安定は不可欠であったので歓迎した。

ベトナム戦争の終結

 しかしベトナム戦争が長期化するとともに、アメリカ軍の敗北が決定的となり、1973年3月29日アメリカ軍のべトナム撤退が行われたことから収束に向かい、1975年4月30日サイゴンが陥落してベトナム戦争は終結、南北ベトナムが統一されるという結果となった。
軍事同盟から経済協力機構に変質 1976年2月、インドネシアのバリ島で、ASEAN5カ国の大統領・首相が参加して初の首脳会談が開催された。会議では「ASEAN協和宣言」(バリ宣言)が採択され、これ以降、経済協力が同盟の主要なテーマとなった。同時に、インドシナの社会主義参加国(ベトナム、ラオス、カンボジア)を念頭において、内政不干渉、武力不行使、紛争の平和的解決を掲げた東南アジア友好協力条約(TAC)を締結、これがASEANの原則となった。また、加盟国が緊密な協力を行うため事務局をインドネシアのジャカルタに設置された。<岩崎育夫『入門東南アジア近現代史』2017 講談社現代新書 p.227>

ASEANの拡大 5から10へ

 ベトナム戦争が終結した70年代後半からは、東南アジア諸国連合は次第に経済協力の性格が強くなっていった。域内の経済成長がめざましく、1984年には産油国ブルネイが加盟、大きな経済勢力となった。その後、それまで東南アジア諸国連盟を敵視して(あるいは敵視されて)いたベトナム社会主義共和国が、1986年に市場経済導入に舵を切るドイモイに転じ、さらに1995年7月にASEANに加盟したが、これは結成当時北ベトナムの社会主義勢力が東南アジアに拡大することを阻止するために結成されたASEANが決定的に変質したことを意味していた。ベトナムの加盟は、社会主義政党の一党独裁を維持しながら市場経済を導入するドイモイ政策に転換したことがその背景にあった。
 1997年7月2日、タイから始まった通貨危機がマレーシア、インドネシアなどに広がったアジア通貨危機は、東南アジア諸国の中の順調な経済成長が外国資本に依存していた体質の脆弱さを露呈させ、インドネシアのスハルト大統領がその措置を誤って退陣したことに表れているように開発独裁の時代が終わったことを意味していた。そのため東南アジア諸国連合には、より強固な経済協力が必要であると意識されるようになった。  そのような中、ベトナムに続いて1997年にラオス1999年カンボジアが加盟した。さらにミャンマー(ビルマ)もかつてはビルマ式社会主義をかかげ、アメリカなど欧米資本主義国との経済協力を否定していたが、1988年に民主化運動を弾圧した軍が実権を握り軍政が開始されると、国民の支持を得るために経済成長をはかる姿勢に転換、東南アジア諸国連合との関係構築を模索するようになり、1997年に加盟した。このように、東南アジア諸国の中で後発グループであったインドシナ半島諸国が相次いで参加したのは、いずれも経済協力の推進という現実的な目的があった。
 こうして1990年代終わりまでに、東南アジア10ヵ国が全て加盟する地域連合(ASEAN10)となった。現在はこの地域の経済力の飛躍的な発展を背景に、世界の中で有力な地域連合となっており、さらに中国、韓国、日本との関係が重要になっている。特に、2000年代に入ると中国の南シナ海への勢力拡大にどう対処するかが、大きな課題となっている。
東ティモールの加盟問題 2002年東ティモール共和国がインドネシアから独立した。東ティモールは小スンダ列島の東端にあり、長くポルトガルの植民地であったが1976年にインドネシアが武力で併合していた。独立後も政情が安定せず、国連の平和維持活動(主力はオーストリア軍)が続いていた。東ティモール政府は国際的な立場を強めようとASEANへの加盟を目指しているが、インドネシアとの微妙な関係などからまだ実現しておらず、オブザーバーとして参加している。従って東南アジアの独立国家は11ヵ国となり、ASEANは“東南アジア諸国が全て加盟する地域連合”とは言えなくなっている。

経済統合の進展

 すでに1993年1月にはASEAN自由貿易地域(AFTA)が発足し、加盟国が15年以内に関税を0~5%に削減して貿易自由化を実現することを目指し、予定よりも早く2003年にほぼ達成された。関税の撤廃に続いて経済統合をすすめることは、1997年に「ASEANビジョン2020」で構想が打ち出されており、経済だけでなく安全保障や社会文化の分野でも協力と統合を進めることが謳われた。
 2003年には第二ASEAN協和宣言で、経済共同体、安全保障共同体、社会文化共同体の三つからなる「ASEAN共同体」の創設を決めた。その三部門のなかで経済共同体は2020年の予定が早まり、2015年に実現した。この「ASEAN経済共同体」は、①単一の市場と生産基盤、②競争力のある地域経済、③公平な経済発展、④グローバル経済への統合の四点を目標に掲げ、具体的には物品、サービス、投資、労働者の自由な移動などを実現した。
 その狙いは、1997年のアジア通貨危機の再発を防止することと、中国とインドの経済成長によって欧米諸国の投資がそちらに流れることをふせぐために東南アジア地域に魅力的な投資市場を創出しようとすることにあった。
EUとの違い 「ASEAN経済共同体」は、いわばヨーロッパ連合(EU)の東南アジア版として世界的にも注目を集めたが、EUとはかなり異なった面がある。EUは投資、労働者の移動の自由とともに共通通貨ユーロを導入(すべての国ではないが)などの経済統合を強めるため、加盟国に対して国家主権、とりわけ経済主権の一部を譲渡することなどを要求したが、ASEAN経済共同体では国家主権の譲渡は求めておらず、また経済統合もサービス部門の一部は制限されていること、未熟練労働者の移動の自由は対象外であること、共通通貨も目指していないこと、などのかなりゆるい経済統合となっている。<岩崎育夫『上掲書』p.235>

2008年 ASEAN憲章

 2008年12月、前年の首脳会議で合意された「ASEAN憲章」が発効した。現在、ASEANの組織と活動はこの憲章に基づいており、「経済共同体」もそれに基づいて運用されている。憲章では参加国首脳会議を最高意志決定機関とし、年二回の首脳会議を定例化し、加盟国のアルファベット順に一年交替で議長国となっている。首脳会議のほかに、問題に応じて各種の担当大臣会議や多くの常設委員会が設けられている。中央事務局は1976年以来、ジャカルタに置かれ約300人の常勤スタッフなどによって運営されている。
 ASEAN憲章に見る、その「ゆるやかな地域統合」の原則は次のようなものである。
  • 内政不干渉 EUのような国家主権の移譲や、加盟国に細かな行動規定を要求することはない。加盟国の義務として遵守しなければならないのは東南アジア友好協力条約(TAC)を承認することで、そこには内政不干渉などの原則が定められている。内政不干渉の原則はゆるやかな結束には欠くことはできないが、反面、タイやミャンマーのクーデタなどに対して干渉できないというASEANの問題点ともなっている。
  • 全会一致方式 意思決定は加盟国の全会一致とされており、一カ国でも反対があれば、決定はできない。これはASEANの欠点、あるいは限界と言われることもあるが、「多様性の中の統一」という東南アジア地域の特質から見て、合理的な合意形成原則であるともいえる。まとまることの難しい問題はわきに置いて合意できる範囲で協調しようという「知恵」ともいえる。
 この内政不干渉と全会一致方式という原則によって「ゆるやかな地域統合」、「多様性の中の統一」を実現しているのがASEANであり、2016年に国民投票でイギリスのEU離脱が決まったのとは大きな違いであり、組織の安定を維持するうえで有効な方式とみることも可能である。<岩崎育夫『上掲書』p.239-243>

ASEANと周辺諸国

1990年代からASEAN諸国とその周辺地域との経済協力がはかられるようになり、2000年代には中国、アメリカ、ロシア、日本も加わり広域の協力機構形成がすすんだ。2010年代からは中国の経済や軍事力の膨張への対応が課題となっている。

 1990年代に東西冷戦が解消するとともに、各地の地域統合の動きが活発になった。ASEAN諸国を含む動きにも、すでに1989年に創設されたアジア・太平洋経済協力機構(APEC)があり、日本とオーストラリアが主導して東南アジア、アメリカなどが貿易自由化と経済開発協力を進めていた。また1996年からは、かつてアジアを植民地にしていたヨーロッパ諸国と東南アジアを含むアジア諸国(日本、中国、韓国を含む)が対等な立場で政治や経済について協議するアジア欧州会議(ASEM)が開催されるようになった。
 ASEANと周辺諸国の関係も密接になり始めた。まず、1997年12月にASEAN諸国と日本・中国・韓国が「ASEAN+3」を発足させ、これは現在の東アジア首脳会議(EAS)につながっている。さらに2005年、マレーシアのクアラルンプールで、ASEAN+3にインド、オーストラリア、ニュージーランドを加えた「ASEAN+6」が初めての「東アジア=サミット」を開催した。これは2002年に日本の小泉首相が提唱したものであったが、中国は「ASEAN+3」を重視するのに対し、日本がインド・オーストリア・ニュージーランドを加えた広域機構とすることを主張し、主導権争いがあったことから見るべき成果はあがらなかったが、2011年にはアメリカとロシアが加わり「ASEAN+8」となり重要性を増していった。
 ASEANとの関係を特に重視している中国は、2001年に他国に先駆けてASEANと中国の自由貿易地域形成を呼びかけており、日本とアメリカはそれに対抗する意図から、積極的なアプローチを進めていると言った面もあるので、ASEANと中国、日本、アメリカの提携は進んでおらず、かえってASEANが東アジア地域協力のハブの役割を果たしているともいえる。

NewS RCEPの発足

 東南アジア諸国連合10カ国と、日本・中国・韓国、さらにオーストラリア、ニュージーランドを加えた15カ国は、2020年11月に首脳会談を開催、「地域的な包括的経済連携」Regional Comprehensive Economic Partnership Agreement 略称RCEP(アールセップ)を発足させることで合意した。その後、各国で批准の手続きが進み、2021年11月2日、オーストラリアとニュージーランドが批准したことにより、「ASEANで6カ国、それ以外で3カ国の批准」という発効条件が満たされたため、60日後の2022年1月に発足することが決まった。これまでに批准を済ませているのは、ASEAN加盟国ではブルネイ、カンボジア、ラオス、シンガポール、タイ、ベトナムの6カ国と、それ以外の中国、日本。他のASEAN諸国(インドネシア、フィリピン、マレーシア、ミャンマー)と韓国でも批准に向けた国内手続きが進んでいる。
 RCEPが発足すれば、加盟国はお互いに関税を下げたり、ルールを共有したりて共同の経済活動が後押しされることとなり、域内の人口は22.7億人(19年)、国内総生産(GDP)が約25.8兆ドルといずれも世界の約3割を占める巨大な経済圏が誕生することとなる。環太平洋経済連携協定(TPP)ではアメリカが抜けたため、それをうわまわることとなり、日本にとっても中国・韓国を含む初めての自由貿易圏協定となるので、重要な意味をもっている。<朝日新聞 2021/11/4 朝刊記事>

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東南アジア友好協力条約/TAC

1976年、ASEAN第1回首脳会議で成立した、東南アジア諸国の友好と協力の原則を確認した地域的集団安全保障条約。87年以降、域外にも加盟国が広がり、現在は57ヵ国が加盟している。

 東南アジア諸国連合(ASEAN)首脳は、ベトナム戦争の終結を受けて、1976年2月、インドネシアのバリ島で第1回の首脳会談を行い、東南アジア諸国間の主権・領土保存、紛争の平和的解決などを柱とした基本条約として「東南アジア友好協力条約」を採択した。
東南アジア友好協力条約 Treaty of Amity and Cooperation in Southeast Asia (略称TAC)は、国際連合憲章と1955年のバンドン会議での平和十原則を継承し、東南アジア諸国の平和と安定を維持、発展させるための多国間条約である。その基本原則は、
・主権と領土の相互尊重、・外圧によらずに国家として存立する権利、・内政不干渉、・紛争の平和的解決、・武力による威嚇または行使の放棄、・各国間の効果的な協力
を掲げている。
 1976年締結時の加盟国は当時のASEAN構成国であるインドネシア、マレーシア、フィリピン、シンガポール、タイの5ヵ国で、80~90年代にブルネイ、ベトナム、ラオス、カンボジア、ミャンマーが加盟した。
 2000年以降は東南アジア以外の国の加盟が増加しているが、ASEAN加盟国すべての同意が必要で、主要国では中国、インド、パキスタン、韓国、ロシア、フランス、アメリカ合衆国、EUが加盟している。日本は2004年7月に加盟した。なんと北朝鮮も加盟していおり、2014年段階で57ヵ国に及んでいる。ただし、TACの原則は域外各国間の関係には適用されない。
 ベトナム戦争後の東南アジアの平和維持のために採択されたTACは、地域的集団安全保障のしくみとして注目されている。南沙諸島問題、タイとカンボジアの国境問題などの問題を抱えているが、その存在は重要性を増している。それに対して日本、中国、韓国、北朝鮮の「北東アジア」においては、TACに相当する地域的集団安全保障の取り決めが存在しない。日中・日韓、そして日本と北朝鮮の緊張をむやみに高めるのではなく、困難ではあろうが、北東アジア版TACの可能性を探る意義はある。
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岩崎育夫
『入門東南アジア近現代史』
2017 講談社現代新書