印刷 | 通常画面に戻る |

ニカラグア

北米大陸の地峡地帯のラテンアメリカ諸国の一つ。1821年独立宣言し、23年から中央アメリカ連邦の一員となるが、38年にニカラグア共和国として分離した。長くアメリカの干渉のもとで独裁政治が続いた。1981年の革命で左派政権が成立したが、その時もアメリカの軍事干渉を受けた。

 スペイン人渡来以前はメソアメリカ文明が栄え、メキシコの影響を強く受けていた。1502年、コロンブスが第4回航海の途次、この地の北端に上陸し、1522年に西海岸でのスペイン人の入植活動が始まった。スペイン植民地としてはグアテマラ総督の支配を受けた。

スペイン人による支配

 この地にやって来たスペイン人がインディオを虐殺、征服し、エンコミエンダ制によって支配した状況は、16世紀初めの宣教師ラス=カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』で厳しく告発されている。
(引用)1522年か23年、今述べた無法者(ペドラーリアス=ダビラ)はニカラグアという非常に豊饒な地方の征服に向かい、またしても嘆かわしいことに、そこに侵入した。この地方の素晴らしさ、住民の健やかさと親切心、それに、多くの住民が、密集して暮らしているその繁栄ぶりについて充分言い尽くせる人はいないであろう。事実、この地方には驚くほど多くの村があった。・・・そこには素晴らしい果樹がたくさん茂っており、そのために大勢の人が住むようになっていた。土地は平坦で広々としているため、インディオたちは山へ隠れることができなかった。また、生活が非常に楽しかったので、彼らは簡単にそこを離れられなかった。だからこそ、彼らは酷い迫害にもいっと耐え忍び、キリスト教徒たちの行う残虐や圧迫にも精一杯我慢していたのである。それもまた、インディオたちが天性穏やかで従順な人たちであったからである。・・・インディオたちの暮らしていたすべての村には、それぞれ素晴らしい果樹園があったので、キリスト教徒たちはそこに居を定め、各々分配された――彼らの言葉を借りれば委託(エンコメンダール)された――村にとどまった。彼らはインディオたちに土地を耕作させ、彼らの乏しい食糧を奪って暮らした。こうして、キリスト教徒たちはインディオたちの土地を占領し、彼らが生きる手立てとしていた田畑を奪ったのである。・・・とうとう1523年から1533年までの間に王国一帯の人口を全滅させてしまった。実際、彼らは6,7年の間、大勢のインディオを5,6隻の船でパナマやペルーへ運搬し、奴隷として売り捌いた。・・・スペイン人たちが行った極悪無惨な戦いや彼らが課したおそろしい奴隷生活が原因で、さらに50万か60万のインディオがこれまでに死にたえたが、今もなお、その殺戮は繰り返されている。<ラス=カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』染田秀藤訳 岩波文庫 1976 p.53-58>

ニカラグアの独立

 1821年、グアテマラ総督領のクリオーリョたちが独立宣言、一時メキシコの一部となった後、1823年にグアテマラ、エルサルバドル、ホンジュラス、コスタリカと共に中央アメリカ連邦を結成した。しかし、地域主義が強まり、38年にはそれぞれが分離した。
 19世紀初めから、ニカラグアには大西洋と太平洋を結ぶ運河建設の候補地として着目され、イギリス、フランス、アメリカが次々と進出、当初、ニカラグア運河敷設権はアメリカが獲得した。

Episoce まぼろしのニカラグァ運河

 北米大陸と南米大陸を結ぶ中米の地峡地帯に、運河を建設するという発想は、ドイツの地理学者フンボルトが、パナマなど三ヶ所に運河を建設することが可能だと述べたことから、イギリス、フランス、オランダ、アメリカなどの世界的海洋国家は、いずれも強い関心を持つようになった。イギリスは、後にトラファルガーで英雄となるネルソンをニカラグァに派遣し、運河建設地の調査をさせた。イギリスは実際、スペインと争ってニカラグァのカリブ海側の一部を割譲させている。フランスではナポレオン自身が論文を書いて運河の重要性を指摘し、オランダはニカラグァ運河の建設権を手に入れ、ニカラグァ運河会社を作った。
 ニカラグァが運河建設の最初の候補地として上がったのは、内陸に湖が広がっていたからであった。ニカラグァ運河に特に熱心だったのはアメリカで、南北戦争が終わったあと、グラント大統領はアメリカ人の手でニカラグァ運河を建設することを宣言し、運河委員会を発足させ、海軍に現地調査をさせている。しかし、ニカラグァ運河は工事が難航し、1902年には付近の火山が爆発するなどの災害が起こったため、継続を断念し、フランスのレセップスが放棄したパナマ運河の敷設権を買い取って、そちらに転換した。

サンディーノの反米闘争

アメリカは運河建設事業を通じてニカラグアへの干渉を強め、たびたび軍隊を送って親米政権を助けた。しかし、アメリカの干渉に反対する勢力も次第に力を強め、1927年にサンディーノ将軍がアメリカ海兵隊に対してニカラグア北部でゲリラ戦による抵抗を開始した。その抵抗は33年まで続き、アメリカ海兵隊をついに撤退に追い込んだが、同じニカラグァ軍のソモサ将軍によって34年に暗殺されてしまった。サンディーノの名は反米闘争のシンボルとして、後の反米ゲリラ組織サンディニスタの名として生き返る。

独裁者ソモサ家の支配

 国家警備隊の司令官であるソモサ将軍はサンディーノの暗殺に成功し、次第に軍を抑え、アメリカの支援、自由党・保守党などの政党の支持も取り付け、1937年に大統領に就任した。ソモサとその長男と次男は一時期を除き、1979年まで大統領として金輸出などの利益を独占して一族支配を平然と続けた。

ニカラグア革命/ニカラグァ事件

1979年、ニカラグァにサンディニスタ左派政権が成立すると、81年、アメリカのレーガン政権が軍事介入した。それを機に1990年まで内戦状態が続いたが、2006年左派政権が復活した。

サンディニスタの蜂起と革命政権樹立

 第二次世界大戦前の1937年から続くソモサ一家の長期独裁政権の腐敗や人権抑圧に対して、労働者・農民・学生によってサンディニスタ民族解放戦線(FSLN)が蜂起し、1979年6月に蜂起し、臨時政府を樹立した。ソモサはアメリカに亡命し、その長期独裁政権は終わりを告げた。
 このニカラグア革命政権は土地改革・識字運動の推進、ソモサ家の財産没収などを実施したが、その急進的な革命には中間層が反発し、80年には中道派が離脱、革命派困難な事態となった。

アメリカの軍事介入

 1981年に就任したアメリカのレーガン大統領は、ニカラグアにおける反米政権の樹立を受け、他の中南米諸国への革命の電線を阻止すべく、サンディニスタ政権が周辺諸国の反政府ゲリラを援助しているという理由で、爆撃や港湾への機雷敷設など介入を開始した。

ニカラグア事件裁判でアメリカが敗訴

 ニカラグァに軍事介入したアメリカ政府が、隣国ホンジュラスを基地としてニカラグアに侵入している反政府組織コントラに武器を供与していた。サンディニスタ政権はアメリカの行為を侵略行為として1984年に国際司法裁判所に訴えた。アメリカは裁判で、ニカラグアへの攻撃はエルサルバドルなど周辺諸国の要請による集団的自衛権の行使であると主張した。
集団的自衛権の行使条件 この裁判ではアメリカの主張は否定され、集団的自衛権の行使条件として、攻撃の犠牲となった国家が武力攻撃を受けたことを自ら宣言することと当該国家ら要請という二要件があると認定した。<最上敏樹『国連とアメリカ』2005 岩波新書 p.170~ / 豊下楢彦『集団的自衛権とは何か』2007 岩波新書 p.31~>

内戦の長期化

 ニカラグア内戦は革命政府軍とアメリカに支援された反革命軍の間で長期化し、サンディニスタ側はキューバとソ連から軍事支援を受けて長期化した。ようやく和平交渉の動きが始まり、コンタドーラ=グループが仲介して87年8月中米5ヵ国首脳会議がグアテマラで開催され、90年2月に総選挙が行われることになった。また、冷戦末期の東西対立が尾を引いていたが、1989年末に冷戦の終結宣言が出されたことによって、和平への動きが具体化した。

和平の実現

 中米和平交渉の条件として、国連の選挙監視団のもとで実施された1990年の総選挙では、サンディニスタは僅差で多数を取れず政権を失った。サンディニスタ内部でも武装闘争の継続を主張するものもあり、旧ソモサ派との武力衝突が再発が危惧される事態となったが、オルテガは選挙結果に従って下野し、事態は一応内戦終結の方向に向かった。新大統領には野党連合の女性候補チャモロが就任したが、その後の三期続いた中道・保守政権では、汚職が広がり、格差が拡大する結果となった。

オルテガ大統領の復帰

 一方、サンディニスタ解放民族戦線は、過激な武装方針を改めて、貧民層と中間層の取り込みを図った経済政策を採る方向に転換し、2006年11月の大統領選挙でダニエル=オルテガが16年ぶりに大統領に復帰を果たした。
 二期目のオルテガ政権は社会変革を漸進的な手法に改めながら、反米姿勢は依然として明確にしており、キューバのカストロ、ベネズエラのチャベス、エクアドルのコレア、ボリビアのモラレスなどと共同歩調を取っている。
印 刷
印刷画面へ