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パナマ運河

大西洋と太平洋を結ぶ、パナマ地峡に設けられた運河。レセップスが建設に着手したが失敗。アメリカがパナマを強引に独立させ、運河地帯の支配権を獲得し、1904年に着手し、1914年に完成させた。アメリカは1977年の新パナマ条約で返還を約束したが、89年にパナマ侵攻を実行、運河の支配維持を図った。しかし、国際世論の反発が強く、99年に約束通り返還された。

 1914年に開通した、北米大陸と南米大陸を結ぶパナマ地峡を横断し、大西洋と太平洋を結ぶ要地に設けられた運河。1869年に開通した地中海と紅海~インド洋を結ぶスエズ運河に次いで建設され、現在、海上交通路の要地となっている。
 1880年、レセップスらによって着工されたが、技術的に難航して会社が倒産して中断された。その再開をめぐって、フランス国内で1892年にはパナマ事件という汚職事件が起き、フランスによる運河建設は失敗した。
 1903年、アメリカ合衆国のセオドア=ローズヴェルト大統領がコロンビアに介入してパナマ共和国を独立させて建設権を獲得し、1904年に工事に着工し、14年に完成、使用を開始した。

レセップスの失敗

 世界の船舶が帆船から蒸気船への移行が進んだ1870年代、スエズ運河がようやく黒字に転換し、運河の有効性が高まったのを受けて、大西洋と太平洋を結ぶ運河の建設計画がもちあがった。1876年、国際地理学会はレセップスを委員長とする両洋間運河開鑿委員会を設置し、78年にコロンビア政府より開鑿権を得た。79年、レセップスを代表とするパナマ運河会社が設立され、80年に工事が開始された。レセップスは、スエズと同じ水平式で可能と考えたが、両洋の水位の違いが大きく、途中から閘門式に切り替えた。閘門の工事技術者としてエッフェル塔を成功させたエッフェルが招聘された。しかし熱帯雨林が工事の進捗を阻害したこともあって工事費が当初予想をはるかに上回ることとなった。レセップスはフランス国内で富くじを発行して資金を得ようとしたが売れ行きが悪く、結局資金繰りに失敗することとなり、ついに89年にはスエズ運河会社が破産し、工事は中断されることとなった。翌年、フランスで運河会社の富くじ発行にからむ贈収賄事件が明るみに出、いわゆるフランス政界を揺るがしたパナマ事件となり、レセップス親子が有罪となってフランスによるパナマ運河建設は完全に挫折した。<文学作品であるが、大佛次郎『パナマ事件』に、レセップスのスエズ運河とパナマ運河建設、さらにパナマ事件の詳しく経過が描かれている。1959発表。現在は朝日新聞社刊の大佛次郎ノンフィクション全集9>

アメリカによるパナマ運河の開設

 アメリカは1849年にゴールド=ラッシュが本格化すると、船でパナマに行き、最も狭い地峡(最短で51キロ)を鉄道で横断して、太平洋側を船で北上するというルートを考え、パナマ地峡の鉄道建設に着手し、現地人や中国人(クーリー)を酷使しし「最も短い大陸横断鉄道」を完成させた。この鉄道は後にパナマ運河をアメリカが建設する際に大いに役立った。ただしアメリカは、運河については当初、パナマでなく、内陸に湖があるニカラグァに着目し、南北戦争後にはニカラグァ運河を建設することを決めた。しかし、工事は難航し、開通の目処は立たなかった。
 アメリカ帝国主義は1898年の米西戦争のとき、大西洋側にいた軍艦をフィリピン攻撃のため太平洋側に回航させようとして南米大陸を廻り、90日間かかってしまったことを機に、運河建設の気運が高まった。アメリカは当初、ニカラグアで新規に開鑿することを計画したが、1902年にニカラグァで火山噴火が相次いだことから計画を変更し、レセップスが放棄したパナマ運河の建設権を継承して工事を再開することに転換して、2億フランでフランスからその権利を買い取った。しかし、コロンビア政府がアメリカの建設権を認めなかったので、アメリカはパナマ地域のコロンビアからの独立運動を軍事支援して、1903年にパナマ共和国を独立させ、パナマ運河条約を強制してその所有権を獲得した。 → アメリカの外交政策
アメリカ=パナマ間のパナマ運河条約 1903年11月にパナマ共和国の独立宣言のわずか2日後にアメリカ政府はパナマ新政府を承認、さらに13日後にパナマ運河条約に調印した。
 パナマ運河条約は、第1条でアメリカがパナマの独立を保障すると定め、事実上パナマがアメリカの保護国であると明言している。第2条は10マイル幅の運河地帯、および運河の関連事業にアメリカが必要だと考える地域は永久にアメリカの支配下にあると認めた。第3条では運河地帯の主権がアメリカにあることを確認し、パナマの主権は排除すると明記している。このように、パナマ運河条約は、パナマのアメリカへの実質的属国化を定めたものであった。
セオドア=ローズヴェルトの棍棒外交   条約締結にあたって、コロンビア軍の反撃と民衆の抵抗が予測されたので、セオドア=ローズヴェルトは軍艦をパナマ沖に派遣して圧力をかけた。さらに、パナマ軍を解体して国家警備隊に縮小し、1904年のパナマ憲法には、パナマの国内政治の安定のためにアメリカが軍事介入できるという条項を盛り込ませた。このようなセオドア=ローズヴェルトの軍事力を背景にしたカリブ海域への強硬手段は、棍棒外交と言われた。

Episode 売国奴と言われた初代大統領

 パナマのアマドール新大統領はさすがにこのような不平等条約には抵抗した。アマドールは交渉のためアメリカに赴いたが、パナマの駐米大使バリーヤ(フランス人技師)は留守政府に電報を送り、至急批准しなければアメリカはパナマ独立承認を取り消すと脅したため、留守政府は条約を批准してしまった。アメリカの新聞はアマドールがセオドア=ローズヴェルト大統領から巨額の金を稼いだと報道したため、アマドールは初代大統領でありながら売国奴とも呼ばれている。<伊藤千尋『反米大陸』2007 集英社新書 p.87>

パナマ運河の完成とアメリカの世界戦略

 パナマ運河は工事開始から10年後の1914年8月に完成した。これによってニューヨーク=サンフランシスコ間を1万5000キロ縮めて、アメリカ産業にとって重要性が強まっていた。この年は第一次世界大戦勃発の年であり、アメリカはその戦争でもパナマ運河が大きく役立った。その後、アメリカは軍隊を駐屯させ、パナマを事実上支配し、その世界戦略の要としていた。
アメリカのアジア進出  第一次世界大戦前のアメリカは中国進出に後れをとり、1899年に門戸開放宣言を主張したにとどまっていた。その間、日露戦争後は日本が大陸への進出を活発にしたため、アメリカも神経をとがらせていた。そのような中、1914年にパナマ運河が開通したことは、アメリカの太平洋方面、さらに中国大陸への関心を強めることとなり、ワシントン会議を経て、1920年代のワシントン体制での日本との対立の結びついている。 → アメリカの外交政策

F=ローズヴェルトの善隣外交

 アメリカによるパナマ運河地帯の支配に対するパナマ人の不満は次第に高まっていった。1925年には初めて反米暴動が起こり、アメリカ政府も対応を迫られ、善隣外交を掲げたフランクリン=ローズヴェルト大統領は、パナマとの交渉に応じて、1936年には運河地帯の本来的主権がパナマにあることを認めた。 → アメリカの外交政策

新パナマ運河条約

 第二次世界大戦後も、さらにパナマの反米運動が続き、特に1956年にスエズ運河国有化が実現したことから、パナマにおいても全面返還を求める声が強まった。1968年にはパナマでクーデターによって権力を握ったトリホス将軍は民族主義を前面に押しだして、国際世論に運河返還を訴え、アメリカで共和党政権から民主党政権のカーター大統領に代わった1977年に、アメリカ・パナマ間の新パナマ運河条約(パナマ運河返還条約)が成立、1999年までにアメリカの主権を終了させ、パナマに返還することが約束された。

アメリカ軍のパナマ侵攻

 しかし、その後、新パナマ条約を締結したパナマのトリホス大統領が事故死してノリエガ将軍に交代すると、アメリカのブッシュ(父)大統領は、ノリエガの軍事政権が反民主主義的で、麻薬密輸などに関与しているという口実を設け、1989年にパナマに侵攻して実力で政権を排除し、パナマ運河支配権を守ろうとした。

パナマ運河返還の実現

 のようなアメリカの軍事力を背景とした覇権主義は国際世論の反発を受け、また冷戦の終結、ソ連の解体という国際栄寺の激変のなかで、アメリカはパナマに対する軍事支配の維持をあきらめ、新パナマ運河条約の約束どおりに、1999年12月31日を以てパナマ運河地帯の主権を放棄して、パナマ共和国に返還した。こうして現在はパナマ運河はパナマ共和国の管理運用下に置かれている。
 現在はパナマ運河の通行料はパナマにとっての大きな収入源となっているが、船舶の大型化に対応した運河の拡張が課題となっている。
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ノートの参照
第14章1節 カ.アメリカ合衆国
書籍案内
パナマ事件表紙
大佛次郎
『パナマ事件』
朝日新聞社 大佛次郎ノンフィクション文庫 9
初版 1959

伊藤千尋
『反米大陸』
2007 集英社新書