ソロモン
前10世紀、ヘブライ王国の全盛期の王。イェルサレムにヤハウェ神の神殿を建設した。その死後、王国は南北に分裂した。
前10世紀、ヘブライ人を統合して成立したヘブライ王国(イスラエル)の第3代の王。ダヴィデ王の子で、伝承によれば前960年ごろ王位継承があったと言うが、二人とも旧約聖書に現れるだけの人物で、その実在は確実とはいえない。エジプトのファラオの娘を王妃に迎え、またフェニキア人のティルスと同盟を結び、フェニキア人の交易活動を保護してオリエントの大動脈を抑え、周辺諸国との交易で巨富を築き、「ソロモンの栄華」と言われた。
しかしソロモンの名やその栄華の様子は、当時の聖書以外の史料には一切出てこない。「ソロモンの栄華」はどうやら歴史的事実と言うより、ヘブライ人の理想とした国王の像としてフレームアップされたものであるらしい。<参考、山我哲雄『聖書時代史 旧約編』2003 p.94>
ソロモンの栄華
(引用)ソロモンはエジプトからバビロニアへ、地中海からインドへと彼の領土内を通ずる通商路を支配する要地を強化した。エジプトからは亜麻布の糸や、よく訓練された戦車用の馬を輸入して、レバノンの高価な木材やアラビアの香料と交換した。……フェニキア人の支配者はソロモンの事業を援助した。北から南へ、東から西へと、通商はパレスチナを通って行った。
ソロモンは、その政策による保障の代償として、隊商からは貢納をとり立てたし、彼自身もさまざまな通商旅行への参加を軽視しなかった。彼の国庫は溢れんばかりになり、オリエントの珍しい獣や商品は、今までに無かったほどエルサレムに多く見られるようになった。宮廷はその洗練された組織と多数の官吏とで、目もくらむばかりだった。王のハーレムの大きさは、話の種になった。遠くから王侯たちが、この最も賢明な王に会いにきた。首都は大きくなり、変っていった。材料の供給や熟練した細工人はフェニキアから得ると共に、労働力には現地人を強制的に徴募した。……<シーセル=ロス/長谷川眞・安積鋭二訳『ユダヤ人の歴史』1966刊 みすず書房 p.23>
イェルサレムにヤハウェ神殿を建設
父のダヴィデは、モーゼがシナイ山で神から与えられた契約を納めたとされる「契約の箱」をイェルサレムにもたらしたが、ソロモンはそれを祀る祭壇を建設した。これはヤハウェ神を国家の守護神として祀ることで、ユダヤ教の象徴的な場とされることとなる。しかし、同時にこれによってユダヤ教の内省的な側面は次第に薄れ、神官を中心とした儀礼宗教という性格が強まり、一部には荒野でひたすら神の声をききながら、悔い改めることを説く預言者が反発を強めることとなる。また、ソロモンはそのほかに壮麗な宮殿も建設したので、民衆への重税が課せられ、反発を受けて死後に王国は南北に分裂してしまった。Episode ソロモンとシヴァの女王
旧約聖書にはソロモンは大変な知者としても描かれており、『詩編』や『箴言』は彼の作品と擬せられている。また、シヴァの女王(アラビアの南方、現在のイエメンか。シェバまたはサバとも表記する)がソロモンの知恵を確かめようとやってきて難問を投げかけたが、彼はそのすべてに難無く応えたので、女王はソロモンを褒め称え、たくさんの金と香料、宝石を贈ったという話が、やはり旧約聖書に載っている。<『旧約聖書』列王記上第10章>しかしソロモンの名やその栄華の様子は、当時の聖書以外の史料には一切出てこない。「ソロモンの栄華」はどうやら歴史的事実と言うより、ヘブライ人の理想とした国王の像としてフレームアップされたものであるらしい。<参考、山我哲雄『聖書時代史 旧約編』2003 p.94>
ヘブライ王国の分裂
ソロモンはたいへんな知者であり、国家を栄華に導いたと言われるが、宮殿や神殿の建設は人民からの重税にまかなわれたからか、その死(前631年、前622年、前922年とも言われる)に際し、民衆の反乱が起こった。王位はレハブアムが継承したが、ユダ一族の支配に反発した北部の民衆は、別にヤロブアムを王に立てイスラエル王国として分離した。南のイェルサレムのユダ一族はレハブアムをその後も王として、ユダ王国となった。こうしてヘブライ人の国家は分裂した。