ダヴィデ
前11世紀末~前10世紀、ユダヤ人のヘブライ王国の全盛期の王。パレスチナ全域を統治。イェルサレムを都とした。
ヘブライ王国(イスラエル)第2代の王。前1003年に即位し、ペリシテ人やカナーン人を征服して都のイェルサレムを建設し、繁栄の基礎を築いた。前961年頃没。その子ソロモンとともに王国の全盛期となった。ダヴィデは理想的な国王として旧約聖書に描かれている。 → イスラエル王国 ユダヤ人
ミケランジェロ作
ダヴィデ像
前1000年頃にパレスチナにダヴィデ王の統一国家が現れた背景には、当時のオリエント世界の枠組みの大きな変化があった。それは、ヒッタイトとエジプト新王国という二大国の対立という構図が、前13世紀末の海の民の侵入以来、揺らいできて、ヒッタイトは滅亡し、新王国も衰退したことである。メソポタミアでもアラム人勢力に押されてアッシリアが一時的に後退し、そこにイラン高原からエラム人が侵入がしてくる。このようにオリエントにエアポケットが生まれたことが、ヘブライ王国の統一と領土拡大を可能にしたと考えられる。
ダヴィデ王の実在
(引用)ダビデ(ダヴィデ)については長らく聖書外史料に欠けていたので、その史的実在を疑問視する極端な説も出されていたが、1993年にイスラエル北部のテル・ダンで発見されたアラム語の碑文に、南(ユダ)国を指す呼称として「ダビデの家」という表現があることが確認された。これにより、間接的にではあるが、ユダ王国の王朝創始者としてのダビデの実在が裏付けられたことになる。<山我哲雄『聖書時代史 旧約編』2003 岩波現代新書 p.86>
ヘブライ王国統一
ダヴィデはヘブライ人(イスラエル人)の部族の一つユダ族の一人であったが、聖書によるとその頃ヘブライ人の王であったサウルは、ベツレヘムの羊飼いエッサイの息子ダヴィデの有能さと人望に嫉妬し、その命を狙ったので、ダヴィデはサウルのもとから逃亡し、宿敵ペリシテ人の地に亡命し、その傭兵となったという。サウルがペリシテ人との戦いで戦死すると、ダヴィデはユダ族のヘブロンの地に戻り、前1003年、王を称した。やがてサウルの娘を妃として迎えてヘブライ人全体の王として認められた。これによってダヴィデはユダ王国とイスラエル王国の二国の国王となり、同君連合が成立した。統一国家の王となったダヴィデはペリシテ人とのゲリラ戦を展開、ペリシテ戦争でついにその宿敵を屈服させ、ヨルダン川西岸のカナーンに勢力を伸ばした。前998年、ダヴィデはカナーン地方の中心地イェルサレムを征服し、イスラエル全域を支配することとなった。統一王朝成立の背景
ミケランジェロ作
ダヴィデ像
ダヴィデの統治
ダヴィデ王はイェルサレムをヤハウェ信仰の中心地として、北部のイスラエルと南部のユダを含む地域を領域国家として統治した。周辺諸地域にも軍隊を派遣して勢力を伸ばし、交易路も抑え、イェルサレムはその都として繁栄した。国家を支える官僚組織を整備し、イスラエル帝国といわれるほどに繁栄した。<以上、山我哲雄『聖書時代史 旧約編』2003 p.75-89>Episode ダヴィデとゴリアテ
旧約聖書のサムエル記にダヴィデの物語が詳しく述べられている。ダヴィデはベツレヘムのエッサイの子で、羊飼いをしていた。預言者サムエルはダヴィデを将来、王となる者と見抜いて油を注いだ。その頃、イスラエル(ヘブライ)王国のサウル王はペリシテ人との戦いの最中であったが、ペリシテ人のゴリアテという2mを越える大男に手を焼いていた。ゴリアテはイスラエル兵に一騎打ちを呼びかけるが皆怖じ気ついて進もうとしない。そのとき、ダヴィデが一人進み出て鎧を脱ぎ捨て、裸になって河原から石を5つ拾い、羊飼いの投石袋に入れてゴリアテにむかっていった。ダヴィデの投じた石はゴリアテの額に食い込み、一撃で倒し、その首を切り落とした。それを見たペリシテ軍は総崩れとなった。こうしてダヴィデはサウル王に見いだされるが、やがて王位を狙う者と疑われ、ペリシテ人に亡命、やがてサウル王が戦死し、ダヴィデは第2代の王となるがその後も波瀾万丈の物語となる。最後は信仰深い王として生涯を終える。なお、有名なミケランジェロの彫刻『ダヴィデ像』は手にした投石袋を肩にかけ、いましもゴリアテをにらみつけた一瞬をとらえている。そのほかにも聖書を題材とした美術作品にはダヴィデ像が多い。