ヘブライ人
東地中海岸で活動したセム語族に属する民族。一神教信仰のユダヤ教を信仰。自らはイスラエル人と称し、他民族からはヘブライ人と言われ、後にはユダヤ人と言われるようになった。
前1500年頃からシリア・パレスチナ地方で活動しはじめた、セム語系の民族。同じセム系のフェニキア人、アラム人らとともに、シュメール人の都市国家を中心としたオリエント世界の中で、より広範な領域を統合する世界帝国の出現の前提となる動きを展開するようになる。
その中で、フェニキア人が海上交易、アラム人が陸上交易という経済的側面で統一国家出現の前提を作ったのに対して、ヘブライ人はオリエントで初めて一神教信仰であるユダヤ教をつくりあげるという精神的、文化的な面での統一国家を準備したことが重要である。 → ヘブライ王国
「入エジプト」はあったか 旧約聖書によれば、イスラエルの祖先たちはカナーンの地の飢饉に追われてエジプトに渡ったという。パレスチナとエジプトは海岸を通れば数百㌔に過ぎず、古くから隊商や軍隊が常に移動するなど、人的・物的交流が活発だったので、後のイスラエルの祖先の一部が飢饉を避けるためにエジプトに行ったことは、歴史的にも十分可能である。(「出エジプト」があったとすれば、「入エジプト」もあったはずだが、それは「可能だった」と考えられている。ただその時期や規模を明らかにすることは難しい。)
エジプトに住んだイスラエルの祖先は、強制労働に駆り出され、特にレンガ造りなどをさせられたという。エジプトで奴隷とされたイスラエル人の祖先は「ヘブライ人」(イプリー)と呼ばれたが、これはエジプト新王国時代に建築労働に従事した非エジプト系居留者が「アピル」と呼ばれたことと呼応する。なお、このアピルは、シリアやメソポタミア文書に出てくる「ハビル」ないし「ハピル」と対応する語であり、本来は特定の人種や民族を表す語ではなく、その地で正式な市民とはみなされず、奴隷や傭兵などとなった非土着系集団を総合的に指す概念であったらしい。<山我哲雄『聖書時代史・旧約編』2003 岩波現代新書 p.27-29>
ソロモン王の死後、前922年ごろ、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂し、前722年イスラエル王国はアッシリアに滅ぼされ、ユダ王国は新バビロニアのネブカドネザル王によって前586年に征服され、イェルサレムは破壊されて多くのヘブライ人がバビロンに連れ去られた(バビロン捕囚)。
その中で、フェニキア人が海上交易、アラム人が陸上交易という経済的側面で統一国家出現の前提を作ったのに対して、ヘブライ人はオリエントで初めて一神教信仰であるユダヤ教をつくりあげるという精神的、文化的な面での統一国家を準備したことが重要である。 → ヘブライ王国
イスラエル人、ユダヤ人という呼称
彼らはヘブライ語を話し、民族宗教として一神教であるユダヤ教をつくりあげたが、民族名としては、自らは「イスラエル人」と呼んでおり、それは旧約聖書の中で神から与えられた名称である。ヘブライ人というのは、他民族が彼らをそのように呼んだもので、特にエジプトで奴隷生活を送っている時代にヘブライ人と言われた。そして、後にその一部族であったユダが作ったユダ王国が長く続いた後、新バビロニアに滅ぼされてバビロン捕囚となったころから、ユダヤ人と言われるようになった。旧約聖書でのヘブライ人
旧約聖書には、ヘブライ人の系統が詳しく述べられている。それによれば、セムの子エベルの子孫のアブラハムがヘブライ人の祖先とされる。その伝承によればメソポタミア東南部のウルからカナーン(パレスチナ)のヘブロンに移住したとされるが、それは事実とは考えられない。ヘブライ人は北西セム語を話すが、ウルのカルデア人は南東ハム語で言語が違う。カルデア人は後に新バビロニアを建国し、へブライ人のバビロン捕囚を行う民族なので、捕囚からの帰還の記憶がヘブライ人の伝承に混入したのではないかと考えられる。おそらく彼らは、北西メソポタミアで遊牧生活を送りながら、移動を繰り返していたものと思われ、自らはイスラエル人と称していくつかの部族(旧約聖書では12部族)を形成した。「入エジプト」はあったか 旧約聖書によれば、イスラエルの祖先たちはカナーンの地の飢饉に追われてエジプトに渡ったという。パレスチナとエジプトは海岸を通れば数百㌔に過ぎず、古くから隊商や軍隊が常に移動するなど、人的・物的交流が活発だったので、後のイスラエルの祖先の一部が飢饉を避けるためにエジプトに行ったことは、歴史的にも十分可能である。(「出エジプト」があったとすれば、「入エジプト」もあったはずだが、それは「可能だった」と考えられている。ただその時期や規模を明らかにすることは難しい。)
エジプトに住んだイスラエルの祖先は、強制労働に駆り出され、特にレンガ造りなどをさせられたという。エジプトで奴隷とされたイスラエル人の祖先は「ヘブライ人」(イプリー)と呼ばれたが、これはエジプト新王国時代に建築労働に従事した非エジプト系居留者が「アピル」と呼ばれたことと呼応する。なお、このアピルは、シリアやメソポタミア文書に出てくる「ハビル」ないし「ハピル」と対応する語であり、本来は特定の人種や民族を表す語ではなく、その地で正式な市民とはみなされず、奴隷や傭兵などとなった非土着系集団を総合的に指す概念であったらしい。<山我哲雄『聖書時代史・旧約編』2003 岩波現代新書 p.27-29>
出エジプトとカナーンへの定住
エジプトから逃れるためにモーセに率いられて「出エジプト」を行い、その途中のシナイ山で十戒を授かった(シナイ契約)ことがユダヤ教成立の重要な伝承となっている。しかし、モーセは聖書外資料にはまったく現れず、シナイ山の位置も特定できていない。その後、数十年にわたりシナイ半島の荒野をさまよった後に、モーセの使用人であったヨシュアが指導者となり、ジェリコ(エリコ)の戦いに勝利してカナーンを征服し、イスラエルの12部族にくじ引きで定住地を与えたという。しかし、エリコの発掘の結果、その城壁は青銅器時代の前2300年頃の頃であり、ヨシュアの頃はすでに人が住んでいないことが判っており、歴史的出来事ではなく、長い定住の過程を理想化したフィクションである。<山我哲雄『聖書時代史・旧約編』2003 岩波現代新書 p.37>ヘブライ王国
その後ヘブライ人はそれぞれの族長に率いられて統一国家をつくることはなかった(族長時代)が、海の民の一派であるペリシテ人が現在のガザを中心とした東海岸に侵入してヘブライ人を圧迫するようになった。それに対抗するため、ヘブライ人の統一が進み、前11世紀末にサウルによって統一されてヘブライ王国が成立した。前1003年に第2代の王となったダヴィデがペリシテ人を破り、さらに周辺を征服した。ヘブライ王国は次のソロモン王の時に全盛期となり、王はイェルサレムにヤハウェ神殿を建設した。ソロモン王の死後、前922年ごろ、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂し、前722年イスラエル王国はアッシリアに滅ぼされ、ユダ王国は新バビロニアのネブカドネザル王によって前586年に征服され、イェルサレムは破壊されて多くのヘブライ人がバビロンに連れ去られた(バビロン捕囚)。
ヘブライ人・イスラエル人からユダヤ人へ
前722年のイスラエル王国の滅亡と、前586年のユダ王国の滅亡によって、イスラエル12部族(ヘブライ人)のうち、ユダ族を中心とした旧ユダ王国の人々だけが民族として存続した。彼らはバビロン捕囚から解放された後、国家の本格的な再建は出来なかったが、イェルサレムで神殿を再建し、ユダヤ教信仰によって結びつけられた民族意識を存続させる。その結果、彼らは「ユダヤ人」と言われるようになった。商況という枠組みの中でユダヤ国家は形式的に存続したと考えられる。ユダヤ教の成立
このバビロン捕囚は前538年にキュロス2世が新バビロニアを滅ぼして解放されるまで続いた。このバビロン捕囚の時期に、彼らは律法(トーラー)を守り、会堂(シナゴーグ)で集会を開いて、ヤハウェ神が救世主(メシア)を使わして民族の苦難が救済されるというユダヤ教の信仰を形成するようになった。 → 以下、ユダヤ人の項を参照してください。