印刷 | 通常画面に戻る |

ドーリア人

古代ギリシア人のドーリア方言を話す人びと。最も遅れて前1200年頃ギリシアに南下した。スパルタなどのポリスを建設した。

 古代のギリシア人の中で、ペロポネソス半島に居住し、その方言を話した人びと。ドーリス人とも言う。スパルタは、このドーリア人が先住民を征服して成立したポリス。もとはギリシア北部にとどまっていたギリシア人であったが、前1200年頃にギリシア本土のミケーネ文明が消滅(その理由は現在は海の民の侵入によると考えられている)した後に、南下し始め(一般にこれをギリシア人の南下の第二波という)、前1100年頃までにペロポネソス半島一円に定住し、先住民のアカイア人と共存していった、と考えられている。
 なお、ドーリア人は西北系方言のギリシア人であるのに対して、イオニア人(アテネを建設した)とアイオリス人(テーベなどを建設)は東方系方言のギリシア人とされている。

否定された「ドーリア人による破壊」説

 かつては、ドーリア人の南下によってミケーネ文明が破壊された、と説明されていたが、現在の教科書からはそのような記述は無くなっている。
 2003年まで使用されていた山川出版社の『詳説世界史』(旧課程)までは、「ミケーネ文明も、ギリシア人のうちでおくれて南下したドーリア人(ドーリス人)のため、つぎつぎに破壊されてしまった(前1100年頃)。」と断定的に書かれていた。新課程の『詳説世界史B』では、「ミケーネ文明の諸王国は前1200年頃とつぜん破壊され、滅亡した。貢納王政の衰退や気候変動、外敵の侵入など複数の原因によるものらしいが、滅亡のはっきりとした事情は不明である。」という記述に変わった。そして、注として、「この外敵が、同じころ東地中海一帯をおそった系統不明の「海の民」であったという説もある。」とされた。つまり、ミケーネ文明の滅亡原因は「ドーリア人による破壊」ではなく、複合的な要因であり、一説に「海の民による破壊」説がある、ということになった。他の教科書、新課程用参考書もほぼ同じような記述となった。
 ドーリア人が南下して先住ギリシア人を征服した、という説はトゥキディデスの『戦史』にさかのぼる。その冒頭で、「(トロヤ陥落から)八十年目には、スパルタ人などのドーリア人が同じく南下を開始し、ペロポネソス半島に侵入定着している」(第一巻12章)と述べている。近代の言語学の深化で、ギリシア語の方言分布が明らかになり、先住ギリシア人であるアカイア人などは東方方言群であり、西方方言群のドーリア人やボイオティア人、テッサリア人などがあとから侵入してきて、先住ギリシア人は征服されるか、エーゲ海の島々、小アジア西岸に逃れた、と考えられるようになった。そして前1200年頃のミケーネ文明の破壊がドーリア人など西方方言群のギリシア人南下の第二波によるものと推定されたのである。
 しかし近年では、前2000年紀末に西方方言群のギリシア人の南下があったことは事実であるが、彼らは先住ギリシア人の文化を征服したり破壊したりしたのではなく、共存したと考えられるようになった。それは考古学上の知見によるとドーリア人の南下の以前と以後では生活様式の変化が認められない、と言うことがわかってきたからである。アッティカ地方を除くミケーネ文明の都市が破壊されたのは事実であるが、その前後の文化の変化が無いとすれば、この破壊は一過性のものであったと考えなければならず、その要因としては天災説や自然環境の変化説などが現れたが確証は得られなかった。そこでクローズアップされてきたのが「海の民」の侵入説である。<伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史』初版1976 講談社学術文庫版 2004 p.72-75> → ギリシア人の項 「ドーリア人の移動」という古典学説 参照

スパルタの成立

 ドーリア人の一派のスパルタ人はペロポネソス半島のエウロタス河畔に居を定め、周辺を征服しながら、服従した人々をヘイロータイという奴隷身分か、ペリオイコイとよばれる半自由民(重い貢納の義務を負わされた小作農)としていった。その過程で前7世紀から前6世紀半ばまでに出来上がった軍国主義体制は、伝説的な指導者の名前をとってリュクルゴスの制といわれている。ドーリア人が先住民を征服してできたポリスであるスパルタは、イオニア人が建設したアテネに対抗する勢力として、ギリシア史の両輪として続くことになる。