ギリシア人
インド=ヨーロッパ語族に属し、バルカン半島からギリシアの本土に南下し、エーゲ海域や小アジアに進出した民族。地中海各地に植民活動を行い、前8世紀ごろからはアテネなどのポリス民主政を発達させ、美術、文学、演劇、哲学などで高度な文化を形成した。前5世紀にはギリシア文明の全盛期を迎えたが、前4世紀には同じくギリシア系のマケドニアに征服され、そのアレクサンドロス大王はオリエントにおよぶ大帝国を建設、同時にギリシア人の東方への入植を進めた。その後はギリシア系のヘレニズム国家がエジプト、シリアにも存続したが、前1世紀にローマに征服された。ギリシア人の文化はローマに強い影響を与えただけでなく、イスラーム世界を経由してルネサンスの開花へと繋がっていった。
ギリシア人の第一次移動
古代ギリシア人は、もともとインド=ヨーロッパ語族に属し、中央アジアから南ロシアにかけての一帯を祖地としていたが、インド=ヨーロッパ語族の多くが西に移動を開始したとき、その一派がバルカン半島を南下して、紀元前2000年紀初頭、ギリシア本土に定住するようになった。この時の民族移動をギリシア人の第一次民族移動といい、ギリシア本土に定住した人々がアカイア人であった。(ただし、現在ではギリシア人のバルカン半島への南下は紀元前3000年紀(前3000年~前2000年)までさかのぼると考えられている。その後、ギリシア本土からエーゲ海域に拡がるうち、方言の違いによって、イオニア人、アイオリス人などに分化した。アカイア人の一部であったミケーネ人は、紀元前15世紀にクレタ文明(ミノア文明)が栄えていたクレタ島に侵入してその文明を破壊し、クレタ文明の影響を受けながらミケーネ文明をギリシア本土に形成していった。
ギリシア人の第2次移動
ここまでのギリシア人はギリシア語の東方方言を使う人々であった、これに対して、西北系方言を使うドーリア人が、紀元前1200年頃頃、ギリシアに南下してきた。これをギリシア人の第2次移動といっているが、彼らはギリシア本土のペロポネソス半島に広がり、さらにクレタ島やロードス島、小アジアの一部にも定着した。ドーリア人は南下の際、アジアのミタンニやヒッタイト人が使用を開始した鉄器を携えてきたので、彼らの定着によってギリシアも青銅器時代から鉄器時代に移行した。しかし、アッティカ地方ではドーリア人は定住せず、それ以前からこの地に定住していたイオニア人が文化伝統を継承していた。それは後期ミケーネ文明ともいえる高度な文化であり、ミケーネ時代と同じ形を踏襲しながら、模様が独自の規則的な幾何学模様を発達させており、美術史上、注目されている。
参考 ミケーネ文明の崩壊
ミケーネ文明は、彼らが使用していた線文字Bが解読された結果、土地や農作物の配分などが行われ、書記が重要な役割を担う官僚制が発達するなど、高度な統治システムを持っていたことがわかってきた。宮殿を中心とする都市は強固な城壁をもちながら、海を舞台に豊かな交易活動が行われていたことが窺える。しかし、紀元前1200年を過ぎたときから、宮殿は突然のように崩壊していく。クレタ文明とポリスのギリシア文明の中継の役割を果たした「ミケーネ文明は、輝かしいエーゲ海文明のなかにギリシア本土を参画させるという大事業を終えて、東地中海世界から退場したのである。」<青柳正規『人類文明の黎明と暮れ方』2009 興亡の世界史 文庫版 2018 講談社学術文庫 p.307>
参考 「ドーリア人の移動」という古典学説
ミケーネ文明が崩壊した前1200年頃から、アテネやスパルタなどポリスが形成されるまでの約4世紀は「暗黒時代」と呼ばれている。同じ時期にヒッタイト帝国やエジプト新王国も滅亡した。この紀元前1200年頃に起こった「激震」は何によってもたらされたのか。これについては、かつてはドーリア人の南下、いわゆるギリシア人の第2次民族移動を直接的要因とする説が一般的であった。しかし現在ではそれは「古典的学説」と見做され、新しい見方として、「海の民」の活動がその要因として挙げられるようになっている。最近では、ティリンスの発掘で大規模な地震の痕跡が見つかったことから、ギリシアにおいては文字どおり大地震が「激震」の引き金になったのではないか、という見解も出されている。しかし、ドーリア人の移住をその要因とする古典学説を支持する意見もある。例えば、青柳正規『人類文明の黎明と暮れ方』では「現時点でも暗黒時代の情報資料は増加しているものの、激震の原因は十分に解明されているわけではなく、それゆえドーリア人の民族移動という古典学説も完全に否定されたわけではない」とし、広範囲にドーリア人の移動の痕跡が認められると同時に、アテネのあるアッティカ地方ではミケーネの文化伝統(幾何学模様式)が継承されているからである、と指摘している。<青柳正規『同前書』 p.309-310> → ドーリア人の項 否定された「ドーリア人による破壊」説
ポリス社会の形成
前11世紀ごろまでにギリシア人が次々と北方から移住し、彼らが交錯する過程で都市国家(ポリス)が形成された。また、ギリシア人のポリスは、早くから東地中海に進出し、各地に植民市を形成していった。古代ギリシア人の活動範囲が、現在のギリシア本土だけでなく、小アジア西岸、さらに東地中海、黒海など広範囲な地中海世界に及んでいたことをしっかり理解しておこう。 → ギリシアギリシア人の共通項
古代ギリシアのポリス社会では、ギリシア人は自らをヘレネスと呼び、異民族を他の言葉を使う人々の意味でバルバロイと呼んだ。またそれぞれのポリスは利害が対立すれば戦い、隣保同盟を作ったが、デルフォイの神託やオリンピアの祭典はギリシア人共通の文化として一つの世界=古代ギリシア文明を作り上げた。その後のギリシア人
ギリシアがローマに征服されてからも、ギリシア人の持つ高度なギリシア文化は、ローマ文明に大きな役割を果たした。ローマ時代に、ギリシア商人は東地中海を中心に貿易活動を行い、ギリシア系商人の活動は、エリュトゥラー海案内記などでインド洋まで広がっていたことがわかっている。ビザンツ帝国は、「ギリシア化したローマ帝国」なのであり、ギリシア正教会は東ヨーロッパ世界の精神的支柱として長く存在した。1453年にビザンツ帝国が滅亡してから、ギリシアの地はオスマン帝国のトルコ人に支配されることとなり、イスラーム教とその文化が浸透し、古代ギリシアとは異なるものとなり、言語的にも変化が進んだ。その間、中世以降もギリシア人の海洋活動は活発であり、近代には海運業が盛んになって世界各地で船乗りとして活躍している。また近代に至るまで、国土が肥沃でなかったためもあって、ギリシア人移民はたいへん多く、アメリカ、オーストラリアなどにギリシア人のコミュニティーが作られている。
参考 古代のギリシア人と現代のギリシア人
古代のギリシア人と19世紀に成立したギリシア王国に始まる現代のギリシア国家を構成するギリシア人との関係は、意外とはっきりしない。ヘレニズム時代以降、バルカン半島には、ローマ帝国(ビザンツ帝国)、スラヴ民族の移住、イスラームの進出など、多くの民族が入ってきたので、様々な民族の同化が進み、現在のギリシア人が形成されたのであり、古代ギリシア人の子孫が現在のギリシア人であると簡単には言えない。にもかかわらず、現代のギリシア人は、自らを古代ギリシア人の子孫と強く意識している。近代ギリシアの独立
近代のギリシアの民族的自覚が高まったのは、オスマン帝国の弱体化に伴って、バルカン半島のゲルマン人やスラヴ系民族の独立運動が活発となって、19世紀にいわゆる東方問題が起こったことに刺激されたことによる。それは西ヨーロッパでのギリシア愛護主義に呼応することで活発になった。1821年にギリシア独立戦争が始まり、1830年にはギリシア王国として独立した。しかし、現実と理念の食い違いは言語問題にも見られ、ギリシア語論争が起こっている。