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海の民

前1200年頃、東地中海上で活動した系統不明の民族。ヒッタイト、ミケーネ文明を衰退に追いこみ、エジプト新王国にも侵入するなど、西アジアに大きな変動をもたらした。

海の民
海の民の活動<伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史』p.76>
 紀元前1200年頃、東地中海で活動した民族であるが、その系統や実体は不明である。さまざまな名称をもつ民族からなる集団であったようで、原住地は小アジア西海岸とエーゲ海諸島という説が強い。「海の民」は古代エジプトの文書のなかに現れる呼称を、英語で直訳して Sea Peoples としたことに由来する。「海の民族」と言われることもある。彼らが移動を開始した理由は不明であるが、飢饉が原因で豊かな土地をめざして移住を企てたものであるらしい。 → エジプトでの海の民
(引用)考古学上の知見によれば、東はメソポタミアから、西はイタリア、フランス、さらにバルト海沿岸地方にまで、この時期に移動と混乱の跡が認められるという。そのなかで、「海の民」は、東地中海を舞台に神出鬼没の活躍をくりひろげる。彼らの攻撃の対象となったのが、ヒッタイト、シリア、エジプトと並んで当時繁栄の余光を保っていたギリシア人の諸王国であった。「海の民」は北方からこれらを襲い、重要な拠点をつぎつぎに攻め落としていく。しかし彼らは、略奪し、火を放って破壊のかぎりをつくしたものの、侵入地に定着し、そこで新しい天地を切り拓いていくという地道な生き方を選ばなかった。彗星のごとくきたり、去っていく――のこるは破壊の跡だけである。<伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史』初版1976 講談社学術文庫版 2004 p.77-78>

ヒッタイトとエジプトに侵攻

 彼らはシリア、パレスチナに上陸してヒッタイトと争い、そのためヒッタイトは滅亡したらしく、さらにエジプト(新王国)に侵入した。エジプトの壁画と碑文にその損害が記録されている。海の民の活動によってヒッタイトとエジプトというオリエントの二大勢力の動揺は、次の前12世紀のオリエント世界全体の動乱の始まりを示すものであった。
鉄器文化の拡散 ヒッタイトが滅亡したことは、ヒッタイトが独占していた鉄器生産技術が、西アジアからギリシアなどの地中海世界へ拡散していく契機となったと考えられる。つまり、海の民の活動は、文化史の段階では、青銅器時代から鉄器文化への移行をもたらしたと言うことができる。

ギリシアへの侵入

 また最近では、ギリシアのミケーネ文明が急速に衰退し、暗黒時代という混乱期となったのも海の民の侵攻が原因とされている。しかし「海の民」はギリシアに定住することなく、その後の前1100年頃にギリシア人の中の西方方言群に属するドーリア人が南下して定住したと考えられている。<伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史』初版1976 講談社学術文庫版 2004 p.75-86>
 ギリシアの暗黒時代はまた、青銅器時代から鉄器時代への移行期に当たっていたと考えられる。

パレスチナの地名の起源

 なお、海の民の一部のフィリスティア人がシリア沿岸南部に上陸した。彼らがペリシテ人と言われるようになり、地中海東岸の現在のガザ地区に定住し、内陸にも進出してセム系民族のヘブライ人と対立するが、彼らが支配した地域をその名からパレスチナというようになる。前11世紀の終わりにはヘブライ人がペリシテ人を抑えてヘブライ王国を建設する。

エジプト新王朝と海の民

地中海東岸の内陸に進出した海の民は、新王国時代のエジプトのラメセス3世などとも戦った。新王国は海の民を撃退したと考えられている。

 「海の民」の存在とその活動を伝える史料はエジプトにある。一つは前13世紀末、新王国第19王朝のファラオ、メルエンプタハの戦勝記念碑と、前12世紀初頭の第20王朝ファラオのラメセス3世の残したテーベの神殿の碑文である。今までは海の民はよくわからない存在であったが、その実態が徐々に明らかになってきている。最近の知見をまとめれば次のようになる。<大城道則『古代エジプト文明ー世界史の源流』2012 講談社選書メティエ p.142-161>

海の民とは

(引用)紀元前13世紀末から紀元前12世紀初頭にかけて、東地中海沿岸地域に侵攻し、破壊・略奪を行ったとされる彼らは、バルカン半島からエーゲ海を経由して、アナトリア、そして最終的には、北アフリカに位置するエジプトのナイルデルタ地域にまで到達したことが知られている。単一の民族ではなく、複数の異民族によって構成された混成集団であったと考えられている彼ら「海の民」は・・・ヒッタイトやギリシアのエーゲ諸王国を滅ぼすなどなど強い力を保持していたとされているのである。・・・しかしながら、東地中海地域の名だたる国家を滅亡・崩壊へと導いた彼ら「海の民」ではあったが、エジプトでは敗北した。・・・「海の民」は、実態の把握ができない集団ではあったが、歴史上、確かに存在した。そしてそのことは古代エジプト史が証明しているのである。<大城道則『古代エジプト文明ー世界史の源流』2012 講談社選書メティエ p.142-143>
メルエンプタハの戦勝記念碑 メルエンプタハは紀元前13世紀末、新王国第19王朝のファラオ。その戦勝記念碑はカイロのエジプト博物館に所蔵され、王の勝利を称える文の最後に彼が戦って勝利をおさめた都市名や民族名が記されている。その民族こそ、「海の民」の先駆けであると考えられている。またこの碑文には治世5年目に西方から攻め込んできたリビア人を撃退し9300人を殺害したとでてくる。もう一つ注目すべき点は、文中に「イスラエル」と読むことができる文字列が民族名を示す文字が付されて記されていることで、これが史料上、民族名としてイスラエル人が登場する最古の例である。
ラメセス3世の神殿碑文 エジプト新王国最盛期の偉大なラメセス2世の名を継承した、第20王朝のファラオで前12世紀初頭。この時代は異民族の侵攻が相次ぎ、ふたたび西方からのリビア人の侵攻もあった。治世8年、我我が「海の民」と呼んでいる集団が襲来した。彼らは、西方からアナトリア、シリア・パレスチナを通り、ヒッタイト、カルケミシュ、ウガリットなどに致命的なダメージを与えながら、海路・陸路を併用してナイルデルタ地帯に南下してきた。彼らの中には、シェルデン(サルディニア)、シェクレシュ(シチリア人)、エクウェシュ(アカイア人)、トゥレシュ(エトルリア人)、リュキアからのルッカ、ペルシェト(旧約聖書に登場するペリシテ人、後にパレスチナに定住する)などが含まれていた。ラメセス3世の葬祭殿を核とした神殿複合体であるテーベのメディネト・ハブの碑文の最後に「海の」という形容詞がつくために、我々は「海の民」という言葉を使用しているが、実際のところこの言葉が的確に彼らを表現しているかどうかは疑問がある。
 ラメセス3世のエジプト陸軍は陸路侵攻してきた海の民を撃退し、海軍も水際でその上陸を阻止した。このテーベのメディネト・ハブのラメセス3世葬祭殿第一塔門外側には敵を打ちすえている王の場面、北壁の装飾には「海の民」との戦いの場面が描かれている。

リビア人のエジプト移民

 エジプト新王国のラメセス3世は、「海の民」を撃退することに成功したが、治世11年になると、再びリビア人の移住活動が活発化した。彼らの行動は、彼らを描いたレリーフには女性や子供、荷車に載せた家財道具、あるいは家畜なども見られ、まさに移住・移民であり、彼らから見れば暴力を伴う侵略・侵攻ではなかった。純粋な移民であったか、あるいは何らかの原因で故郷を離れた一種の難民であったのだろう。

Episode 古代エジプトの移民問題

 エジプトに入ろうとしたリビアへのラメセス3世の対応は厳しかった。彼はメシュウェシュの首長をはじめとして、数多くのリビア人を捕らえ、捕虜としたのである。2175人を殺害し、さらに2052人を捕虜とした。
 しかし皮肉にも、戦争捕虜となった者たちはナイルデルタに定住し、ウシ、ヒツジ、ヤギをともなう半遊牧生活と青銅製の剣やチャリオット(馬車)を保持した高い文化をもっており、エジプトの社会構造の中で次第にエジプト社会内で影響力をもつ集団となり、第22王朝と第23王朝はエジプトの王権を手にいれ、リビア朝期ともいわれる時代を現出している。<大城道則『古代エジプト文明ー世界史の源流』2012 講談社選書メティエ p.150-153>
古代エジプトのトランプ?  ラメセス3世の移民排斥は、2016年のアメリカ合衆国大統領選挙でのトランプ候補のメキシコ移民排除、長城建設という公約を思い出させる。このリビア人も、移民か難民かわからないが、武力侵攻したわけでは無いものの、エジプト王から激しい反撃を喰らった。古代エジプトでも移民問題が権力を脅かしていたわけだが、結局はリビア人のエジプト定住の動きは止められなかったという上記の説明は、今後のアメリカの移民問題も示唆しているのかもしれない。はたしてトランプは古代エジプトのラメセス3世と同じだろうか。(2017.1.2記)