ミレトス
小アジアのイオニア地方の中心都市。前7~前6世紀に経済が繁栄、タレスなどの哲学者を排出した。前500年、ペルシアに対する反乱の中心となり、ペルシア戦争となった。
イオニア自然哲学
小アジアのエーゲ海に面したイオニア地方に造られたギリシア人のポリス。早くから商業活動が活発で、そのため先進的な自然哲学がこの地に興った。前6世紀前半、この都市出身のタレースやアナクシマンドロスなどは、自然の根源にあるもの(アルケー)を探求することを開始し、それらを総称してイオニア自然哲学といい、後のアテネのソクラテスやプラトン、アリストテレスなどのギリシア思想の源流となった。イオニアの反乱とペルシア戦争 前6世紀の半ばにアケメネス朝ペルシア帝国の支配下に入ったが、貿易活動を制限されたことなどへの不満が強まり、前500年にペルシアからの離反に踏み切った。前499年にペルシア軍の攻撃が始まり、このミレトスを中心としたイオニアの反乱が起こった。反乱は、ミレトスと同じイオニア人のポリスであるギリシア本土のアテネなどの支援を受けたが、前494年に反乱はペルシア帝国によって鎮圧された。ペルシア帝国は、イオニアの反乱を支援したことを理由に、ギリシアの諸都市を征服する行動を開始、それがペルシア戦争へと発展した。
このようにミレトスは古代ギリシアにとって重要な都市であったが、次第に衰微し、現在ではトルコ共和国領に属し、遺跡として残されているのみである。
自然哲学の故郷
物理学者の高野義郎さんの異色の旅行記『古代ギリシアの旅』は、創造の源を訪ねるというのが副題になっている。その最初の訪問地はやっぱりタレースの出身地、ミレトスだ。以下、高野氏のミレトスの紹介文。(引用)哲学発祥の地ミーレートス。紀元前600年頃、古代ギリシア最初の哲学者たち、タレース、アナクシマンドロス、アナクシメネースを生んだ都市、ミーレートス。すでに廃墟となって久しいこの都市の名は、いまなお私たちの耳に、重みのある、そして懐かしい響きをもっています。ギリシア語のアルファベットも、前800年頃にこのミーレートスでつくられっと考えられているのです。
ミーレートスは、クレータ島(クレタ島)からアナトリアー(現在はトルコ)へ移住した人々を中心に、先住のカーリアーの人々も加わり、前11世紀に創建された都市で、前7世紀後半から前6世紀にかけて、その最盛期を迎えました。・・・<高野義郎『古代ギリシアの旅』2002 岩波新書 p.2>
ミレトスの都市計画
ミーレートスは東寄りに北へ突き出た半島の西岸、先端とつけねとの中ほどに位置しており、今もほぼ南北に走る直線道路が遺跡として残っている。ミーレートスは前500年にペルシア帝国に反乱を起こしたが、前494年、ラデー沖の海戦に敗れて陥落、徹底的に破壊された。それ以前の姿を伝える遺跡はきわめて少ない。今見ることができるのは、前5世紀前半、ヒッポダモスの都市計画に従って再建された碁盤の目状の街路をもつ都市の遺構だ。ヒッポダモスもミーレートスの人で、彼が立案した碁盤目の都市計画は、幾何学的に美しいばかりでなく、交通の便もよく、衛生的にもすぐれていたので、進歩的な政治家ペリクレースの支持を得、アテーナイの外港ペイライエウスやその他の多くの都市で採用された。後のアレクサンドリアもヒッポダモス方式で建設された。それは公共広場を中心に同心円と放射状の街路をもつ、従来の都市計画とは違う、斬新な都市計画だった。Episode ミレトス都市計画の謎
で、最も良く保存されている前4世紀に作られた劇場テアートロンやアゴラー、神殿の跡、港を守っていた二頭のライオン像などを紹介した後、科学者は不思議なことを見い出す。街路がちょうど東西南北ではなく、30度近く時計回りに回転させた方向になっているというのだ。その理由は地形的にむいているという理由では無さそうだ。(引用)この問題はずっと頭に残っていて、あるときふと思い付き、試みに、南北から30度近く傾いた街路を、西南の向きへ延長してみました。この直線はクレータ島の東部を通り、そして、そこにミーラートスの地名を見出すではありませんか。この都市こそ、ミーレートスの人々の故郷、母なる都市メートロポリスであり、ミーレートスの名の由来するところなのです。<高野義郎『古代ギリシアの旅』2002 岩波新書 p.18-19>ということで、著者はさらにクレタ島のミーラータスを訪ねて、その地がミーレートスの母都市であることを確信、その後は、ヒッポダモス方式の都市を巡る旅となる。彼の調査によると、アレクサンドリアの街路の傾きの延長線は、アレクサンドロス大王の故郷、マケドニアの都ペッラ(ペラ)を指しているという。歴史の旅も物理学者がすると面白い方向に向かうものですね。