ラオコーン
紀元1世紀前半のヘレニズム期とされる大理石像。ローマのヴァチカン蔵。ルネサンス彫刻にも強い影響を与えた。
ヘレニズム美術の代表的彫刻
ラオコーン
このような像があることはプリニウスの記述でも知られていたので、この発見は大きな注目を集め、当時30歳を超えたばかりのミケランジェロはただちにその発掘現場におもむき、「芸術の奇蹟」と感嘆し、ローマの古典古代の美術作品として、ルネサンス芸術に強い影響を与えた。<レッシング『ラオコオン』の斉藤栄治氏による解説 p.377>
ギリシア神話のラオコーン
ラオコーンはホメロスの『イーリアス』などで物語られているギリシア神話のトロイア戦争の話を題材としている。ギリシアの王国連合軍がトロイアを攻め、攻めきれないとみるや和睦を申し入れ、贈り物として木馬を城門の中にいれて引き上げた。これが有名な「トロイの木馬」である。その時、トロイアのアテナイ神殿(アポロン神殿ともいう)の神官ラオコーンはそれを信じず、木馬の胴体に槍を突き立てた。中から武器が触れあう音がしたが、ラオコーンの警告は受けいれられなかった。そのあと、ラオコーンが海の神ポセイドンに雄牛を生け贄に捧げようとしたところ、海の中から二匹の大蛇が現れ、ラオコーンと二人の息子を絞め殺すと、アテネ女神像の足下の楯に隠れてしまった。トロイアの人々は、ラオコーンが木馬に槍を投げつけたことに対する神々の怒りによって罰せられたと言い合った。しかし、ラオコーンが警告したように木馬の中に潜んでいたギリシア兵が躍り出て、トロイアは滅ぼされてしまった。ラオコーンと二人の息子の死はトロイア滅亡の前兆だったのである。レッシングの『ラオコオン』
ラオコーン群像にはロードス島の彫刻家アゲサンドロス、アテノドロス、ポリュドロスの三名の名前が彫られていたが、その正確な年代はわかっていなかった。18世紀ドイツの美術史家ヴィンケルマンは、古典期ギリシアの作品として論考を発表したが、同じくドイツの啓蒙思想のレッシング(1729-81)はその著『ラオコオン』(1766)でこれをローマ帝政期の作品とした。レッシングは美術と文学の両面からギリシア文化を詳細に論じているが、とりわけ彼が注目したのはラオコーンの表情であった。レッシングは、その表情は肉体的苦痛に曝されているが抑制的であり、ギリシア彫刻に見られる素朴な感情の表出ではないと見、ローマ帝政期のものと断じた。<レッシング『ラオコオン』斉藤栄治訳 岩波文庫>
オリジナルのラオコーン
このようにラオコーン群像の実際の製造年代についてはギリシア文化説とローマ文化説があったが、第二次世界大戦後に様式研究が進んだ結果、紀元前1世紀のヘレニズム時代の作品とされるようになった。さらに1957年、ラティウム地方の海岸道路の工事現場からティベリウス帝の離宮が発見され、さらに1981年にはバイーアで地下水道工事現場からクラウディウス帝の離宮から多くの大理石立像と石膏型が発掘されたことにより、ラオコーンのオリジナルは、紀元1世紀の最初の4半世紀であり、現在ヴァチカンに残るものは、元のギリシアのブロンズ像をコピーしたものであることが判明した。<プラウゼ/森川俊夫訳『異説歴史事典』1991 紀伊國屋書店 p.107-108>