印刷 | 通常画面に戻る |

ヴァチカン

ローマ市内のサン=ピエトロ大聖堂に隣接する、ローマ教皇庁の所在地。教皇庁を意味している。

 ヴァチカン Vatican(英)はバチカン、ヴァティカンなどとも表記。ローマサン=ピエトロ大聖堂に隣接するヴァチカン宮殿にローマ教皇は居住するので、ヴァチカンが教皇庁を意味するようになる。その起源は、ローマ帝国時代の1世紀の中ごろ、ネロ帝のキリスト教迫害で倒れたペテロの墓所であるという。その地は349年にサン=ピエトロ大聖堂が建てられ、カトリック教会の総本山となった。その後、教皇のバビロン捕囚教会大分裂など、教皇がローマを離れた時期もあるが、ヴァチカンはカトリックの中心地として続いた。
 その間、教皇は一国の君主としてもローマ教皇領を支配していたが、近代に入りイタリア統一の気運が高まって1870年には教皇領はイタリア王国に併合された。しかし、ローマ教皇はイタリア王国がローマ教皇領を占領したことに反発、時の教皇ピウス9世は自らを「ヴァチカンの囚人」と称して宮殿に立てこもってしまった。両者の深刻な対立が続いた。この対立をローマ問題という。

ヴァチカン市国

1929年、ムッソリーニ政権とのラテラン条約でイタリアから分離して国家となったローマ教皇居住区。一個の独立した主権国家として諸外国と外交関係をもつ。

ヴァチカン市国国旗
 1929年のローマ教皇庁とイタリア政府(ムッソリーニの率いるファシスト党政権)との間で締結されたラテラノ条約によって成立した国家。ローマ市内のヴァチカンの丘にあるサン=ピエトロ大聖堂を中心とした一画で、面積0.44平方キロメートル、人口802人(2007年)の世界最小の国家。元首はローマ教皇(2013年3月、即位の第266代即位のフランシスコ)。
 ヴァチカン市国は国際連合には加盟していないが、カトリック全体の統治機構である教皇庁が、教皇聖座(Holy See)としてオブザーバー参加している。カトリック信者は全世界で10億を超えており、その代表としてのローマ教皇の国際政治での発言も大きな影響力をもっている。

Episode 生きたルネサンスのテーマパーク

 ヴァチカン市国には中世以来、ローマ教皇を守る衛兵が常時100人程度が活動している。彼らは中世以来のスイス人傭兵として雇われた伝統を継承し、現在でもスイス人が務めている。またヴァチカンのスイス人衛兵のカラフルな制服は、ミケランジェロがデザインしたものとして知られている。
バチカン市国: 写真
ヴァチカン市国の衛兵 (トリップアドバイザー提供)
(引用)ヴァティカンの軍隊といっても、実は100人ばかりからなるスイスの護衛兵であり、ローマ市内の飛び地である国境部分と法王の警護に当たっている。1509年に法王ユリウス2世によってこの護衛兵の制度ができた。金色と青を主に、赤をアクセントにした縦縞のユニフォームをデザインしたのは、ミケランジェロともいわれている。頭には赤い房のついたヘルメットをかぶって長い槍を抱えた兵士たちは、身長1メートル74センチ以上のスイス人男子から選ばれる。もちろんカトリック信者で兵役年齢に達した志願兵のうち厳しい審査を通過した者ばかりだ。彼らはよく訓練されているが、もはや観光の目玉でもあり、ヴァティカンを生きたルネサンスのテーマパークにしている。<竹下節子『ローマ法王』2005 中公文庫 p.25>

ヴァチカン市国のスイス兵

 スイスは、ルターと並んでローマに反旗を翻したフランス人のカルヴァンが亡命してその拠点としたところであるにもかかわらず、どのような経緯でスイス人がローマ教皇庁の傭兵となったのだろうか。14~15世紀にハプルブルク家の騎兵と戦って実質的独立を勝ち取ったスイス歩兵の優秀さが知られるようになり、スイス人傭兵として雇われるようになった。その最大の雇い主がフランス王とローマ教皇であった。それが定例化し、1509年のユリウス2世による正式なスイス護衛兵の採用となった。
 毎年5月6日には聖ダマソの丘の中庭で新入隊員の入隊式と宣誓式が行われ、その時は教皇も列席して新入隊員を謁見し、丁寧な感謝の言葉を述べる。5月6日は、1527年に神聖ローマ皇帝カール5世ローマの劫略を行い、その掠奪の最中に、教皇を護衛した147人のスイス兵が戦死したという故事に因んでいる。<竹下節子『同上書』p.25-26 一部修正> → イタリア戦争

中国との関係

 ローマ教皇を元首とするヴァチカン市国は世界各国と友好な外交関係をもっている。特にカトリック信者の多い国は教皇の発言や動向が大きな影響を与えている。ところが、カトリック信者の多い国でありながらヴァチカン市国と国交を持たないでいる国がある。それが中華人民共和国で、1951年に両国は国交を断絶した。それは共産主義とローマ教皇を父と仰ぐ信仰が相容れないからであるが、カトリック教会が台湾との関係を深くしている(ヴァチカンはヨーロッパの中で唯一台湾を国家として承認し外交関係をもっている)ことも理由であった。中国当局は国内のカトリック教徒の信仰は認め、1957年に中国天主教愛国会を政府公認の機関として設立、教会の司教など聖職者を独自に任命するようになった。しかしローマ教皇は中国で任命された司教を破門し、認めていない。カトリック信者の中には、天主教愛国会でなくローマ教皇に従おうとするものも多く、彼らは中国当局から弾圧されているので「地下教会」と言われている。
 このような対立が長く続いていたが、2013年に就任したフランシスコ教皇はヴァチカンと中国の関係改善に乗り出している。2018年には教皇が中国側が任命した司教に対する破門を取消し、その後の関係改善の交渉も延長されている。教皇のねらいは、弾圧されている地下教会の信徒の信仰の自由を認めさせることにあると思われるが、台湾との関係、また新たに浮上した香港のカトリック信者の扱いなど、難問も残されている。
印 刷
印刷画面へ
書籍案内

竹下節子
『ローマ法王』
2005 中公文庫

郷富佐子
『バチカン―ローマ法王は、いま』
2007 岩波新書

新聞社特派員として直接触れたバチカン。ヨハネ=パウロ2世からベネディクト16世紀への交替を詳しくレポート。またローマ教皇の歴史を概観している部分も読みやすい。