平民会
古代ローマの民会の一つでで平民(プレブス)のみで構成される議会。護民官を選出する。しだいに重要な機関となり、前367年には平民会の決議が国法とされるに至る。
古代ローマの「民会」の一つとして、前494年の平民(プレブス)が起こした身分闘争である聖山事件の結果、護民官とともに設けられたという。ローマ共和政のなかで、兵員会と並んで民会を構成する重要な国家機関となった。政治の実権を握る貴族出身の終身議員からなる元老院が平民会などの民会から超然としていたが、平民会は王政を否定した都市国家ローマの主権者である市民の政治参加の場として重要な意味をもっていた。
ホルテンシウス法 後に前287年のホルテンシウス法で、元老院の承認が無くとも平民会の決議が国法とされることになる。これによってローマ市民(国民)の総会である平民会が市民全体を拘束する立法機関となった。平民会には定員はなく、その都度集まれる市民で決議できたので、ローマ領が広がり海外に出る市民が多くなると、ローマ市に住む市民が(貧民が多かったが)決定権を持つに至った。
平民だけで構成し護民官を選出。
平民会は平民(プレブス)のみで構成され、護民官を選出し、護民官が議長を務めた。ただし、貴族(パトリキ)は含まないので、国家全体の民会とは見なされず、はじめはその決議は平民にしか及ばなかった。その決議が国法になるには元老院の承認が必要であった。しかし、ローマが貴族共和政から、プレブスを主体としたローマ共和政に移行する上で、次第に重きを成すようになった。ホルテンシウス法 後に前287年のホルテンシウス法で、元老院の承認が無くとも平民会の決議が国法とされることになる。これによってローマ市民(国民)の総会である平民会が市民全体を拘束する立法機関となった。平民会には定員はなく、その都度集まれる市民で決議できたので、ローマ領が広がり海外に出る市民が多くなると、ローマ市に住む市民が(貧民が多かったが)決定権を持つに至った。
ローマ市民の数
「ローマ市民」(つまり公民権をもつ者、の意味で奴隷や外国人は除く)の総数はどのぐらいであったか。そのうち何割がローマ市に在住していたのであろうか。前70年ごろのローマ公民の数は当時の国勢調査でよれば成年男子(17歳以上)だけで91万、海外で従軍中などを入れれば実際には115万ぐらいと想定されている。ローマ市全体の住民は全体で50万、奴隷・解放奴隷などがその4分の3ほどで、解放奴隷を除いた生粋のローマ公民は成年男子が4万、女、子どもを含めて13万ほどだったという。 <吉村忠典『古代ローマ帝国』1997 岩波新書 p.95 が引用するイギリスのブラントという学者の推定>兵員会との違い
ローマの民会にはその発展途上で幾つかの形態の違いが見られるが、重要なものは兵員会とこの平民会の二つである。その違いは次のように説明される。(詳しくは民会の項を参照)- 兵員会は騎士、重装歩兵、その他の兵種ごとに構成される百人組(ケントゥリアス)を構成単位として、執政官(コンスル)と法務官(プラエトル)を選出する。ケントゥリアスの数は騎士・重装歩兵上層に多く配分されていたので、貴族と上層の平民に有利であった。
- 平民会は、トリブスという居住区を構成単位とし、護民官を選出した。トリブスに登録された平民はトリブスごとに投票、トリブスの数で議決された。平民会以前にトリブス会があり、按察官と財務官を選出していたが、平民会決議が国法とされるに至り、同様の機能を持つようになった。