ミトリダテス戦争
前1世紀の前半、小アジアのポントス王による反ローマの戦い。ミトリダテス王は3次に渡りローマ軍と戦い、最も粘り強く抵抗した。
前88年から前63年まで、前後3回にわたる、ローマと小アジアのポントス王ミトリダテスの戦争。ポントス王国とは小アジアの黒海南岸に前4世紀後半に成立した小王国。ミトリダテスはローマの東地中海支配に反発して挙兵、一旦はローマ将軍スラとも和睦した。その後再び反乱、最後は将軍ポンペイウスによって征討された。
ポントス王ミトリダテスは正確にはミトリダテス6世(在位前120年~前63年)。パルティアのミトラダテス1世、ミトラダテス2世とは別人であるので注意すること。
第1次ミトリダテス戦争 前88年、ミトリダテスは緒戦に勝利して、小アジアの解放者として歓迎され、エフェソス市では債務を免除するなど下層民の支持を受け「新しきディオニュソス神」として崇められた。その一方、この地方にいたローマ人のおよそ8万を虐殺した。さらにミトリダテスはイタリア半島やイベリア半島の反ローマ勢力とも連絡を取り、反乱はローマにとって座視できないものとなった。ギリシアのアテネでもミトリダテスの支持を受けた民衆政治家が貴族の支配を倒し、その財産を没収した。ローマは将軍スラを派遣、アテネに報復の総攻撃をかけて殺戮と掠奪を行った。アテネの政治的自立はこの時を以て終わった。スラはこのとき、ローマの実権を対立する平民派のマリウスに奪われていたので、ローマ軍は優勢を取り戻したうえで前85年に講和に持ち込み、ローマに引き揚げた。
第2次ミトリダテス戦争 前83~前81年 スラはミトリダテスにくみした都市に対して賠償金を課しただけでなく、小アジアに対して「10分の1税」や放牧税、港湾税などを課したため、反ローマの気運が高まり、ミトリダテスは再び反乱を起こした。ローマはムーレーナ将軍を派遣し、前83年から3年にわたる戦争の結果、再び講和した。
第3次ミトリダテス戦争 前71/70年~前63年 ローマ軍総司令官となったルクルスは、減税を実施して歓迎され、小アジアの都市は毎年ルクルス祭を挙行して彼の徳を称えることにした。しかしローマの徴税請負人であった騎士たちは暴利をむさぼる機会を逸したので憤慨し、ルクルスはその地位を追われてしまった。ミトリダテスは抵抗を続けたが、前66年にローマ軍総司令官としてポンペイウスが着任すると、形勢が逆転、ユーフラテス川をわたって逃れようとしたが大敗して兵1万を失った。クリミア半島に逃れたミトリダテスはガリアを経由してイタリア半島に攻め込もうとしたが、兵士が反乱を起こし、前63年に自殺し、戦争は終わった。時に68歳。
ミトリダテス王の反ローマの戦いは、ローマ側の史料としてプルタルコスの『英雄伝』の中のポンペイウス伝に詳しく載せられている。<プルタルコス/伊藤貞夫訳『プルタルコス英雄伝』下 ちくま学芸文庫 p.105-118>
また、いささか古い書物だが、吉村忠典氏の解説は次の通りである。これらを読むと、現行の世界史教科書でのミトリダテスは無視されすぎている感がする。
ポントス王ミトリダテスは正確にはミトリダテス6世(在位前120年~前63年)。パルティアのミトラダテス1世、ミトラダテス2世とは別人であるので注意すること。
ミトリダテス戦争の経緯
ミトリダテス戦争は高校の教科書で取り上げられることは少ないが、ローマの地中海世界支配に対する最後の抵抗となった大戦争であり、知っておいてよい歴史事実である。ミトリダテス(同名の王が何人もおり、一般には6世とされ、ミトリダテス大王とも言われる)は小アジア北岸のポントスの王であったが、前2世紀末に黒海の周辺にまたがる王国を築き、東のアルメニア王に娘を与えて自己の勢力下においた。そのころローマはシリア王国を小アジアから駆逐し、その勢力を伸ばしていた。前91年、イタリア半島でイタリア同盟市戦争が起こったのを見たミトリダテスは反ローマに踏み切り、前88年に第1次ミトリダテス戦争が始まった。同じころ、地中海の西方のイベリア半島のヒスパニアでも反ローマ闘争が起こっており、ローマにとっても大きな危機だった。第1次ミトリダテス戦争 前88年、ミトリダテスは緒戦に勝利して、小アジアの解放者として歓迎され、エフェソス市では債務を免除するなど下層民の支持を受け「新しきディオニュソス神」として崇められた。その一方、この地方にいたローマ人のおよそ8万を虐殺した。さらにミトリダテスはイタリア半島やイベリア半島の反ローマ勢力とも連絡を取り、反乱はローマにとって座視できないものとなった。ギリシアのアテネでもミトリダテスの支持を受けた民衆政治家が貴族の支配を倒し、その財産を没収した。ローマは将軍スラを派遣、アテネに報復の総攻撃をかけて殺戮と掠奪を行った。アテネの政治的自立はこの時を以て終わった。スラはこのとき、ローマの実権を対立する平民派のマリウスに奪われていたので、ローマ軍は優勢を取り戻したうえで前85年に講和に持ち込み、ローマに引き揚げた。
第2次ミトリダテス戦争 前83~前81年 スラはミトリダテスにくみした都市に対して賠償金を課しただけでなく、小アジアに対して「10分の1税」や放牧税、港湾税などを課したため、反ローマの気運が高まり、ミトリダテスは再び反乱を起こした。ローマはムーレーナ将軍を派遣し、前83年から3年にわたる戦争の結果、再び講和した。
第3次ミトリダテス戦争 前71/70年~前63年 ローマ軍総司令官となったルクルスは、減税を実施して歓迎され、小アジアの都市は毎年ルクルス祭を挙行して彼の徳を称えることにした。しかしローマの徴税請負人であった騎士たちは暴利をむさぼる機会を逸したので憤慨し、ルクルスはその地位を追われてしまった。ミトリダテスは抵抗を続けたが、前66年にローマ軍総司令官としてポンペイウスが着任すると、形勢が逆転、ユーフラテス川をわたって逃れようとしたが大敗して兵1万を失った。クリミア半島に逃れたミトリダテスはガリアを経由してイタリア半島に攻め込もうとしたが、兵士が反乱を起こし、前63年に自殺し、戦争は終わった。時に68歳。
ミトリダテス王の反ローマの戦いは、ローマ側の史料としてプルタルコスの『英雄伝』の中のポンペイウス伝に詳しく載せられている。<プルタルコス/伊藤貞夫訳『プルタルコス英雄伝』下 ちくま学芸文庫 p.105-118>
反ローマの鬼、ミトリダテス
18世紀フランスの啓蒙思想家モンテスキューはその『ローマ人盛衰原因論』(1732年)の第7章を「いかにしてミトリダテスはローマ人に抵抗することができたか」として1章を割き、“ローマ人が攻撃した王たちのうち、ミトリダテス(6世)だけが勇気をもって自らを守り、かつ彼らを危険に陥れた。”と述べている。<モンテスキュー『ローマ人盛衰原因論』 1989 岩波文庫 田中治男・栗田伸子訳 p.85>また、いささか古い書物だが、吉村忠典氏の解説は次の通りである。これらを読むと、現行の世界史教科書でのミトリダテスは無視されすぎている感がする。
(引用)ミトリダテス大王はローマに対する抵抗の鬼であった。黒海の北岸に追いつめられつつも、大王は今のドイツ地方からフランスに出て、ガリア人の協力を得、そこからイタリアに攻め入って第二のハンニバルになろうという、雄大な構想で戦備をととのえようとした。イタリア半島の住民が最近ローマに反乱を起こしたばかりであることも、大王の計画にとっては有利と思われた。しかし大王の兵士はこの大計画の前に逡巡した。やがて大王のむすこと兵士は大王に反乱を起こし、紀元前63年大王は遂に自殺した。時に大王は68歳。
大王のローマに対するレジスタンスは40年の長きにわたった。その間彼は小アジアにおけるローマの勢力圏で戦ったほか、バルカン半島にまで攻め入り、一時は地中海の東半分をその支配下においた。彼はローマの将軍の何人かをうち破り、何人かを捕虜とした。しかし、武運つたなく、最後はわが子の裏切りにあって自殺をとげたのである。<『教養人の世界史』上 教養文庫 吉村忠典執筆分 1964 社会思想社刊>