同盟市戦争/イタリア同盟市戦争
前91年~前88年、ローマに服属していたイタリア半島の同盟市が市民権を求めて蜂起した戦争。戦争は平定されたが、イタリアの全住民にローマ市民権が付与されて終わった。
前91年、ローマに征服され、ローマと個別の同盟を結ばれながら、ローマ市民権を認められていなかったイタリア半島内の同盟市が、ローマに対して結束して蜂起した戦争。もともと分割統治され、互いに同盟することはできなかったこれらの諸都市が、共通の目的を持って結束した戦争であり、前88年まで続いた。
イタリア同盟市戦争(単に同盟市戦争ともいう)は、前133年,前123年のグラックス兄弟の改革の失敗によって、中小農民の没落が進んだため、ローマ共和政の動揺が顕著になる中で起こり、ローマの「内乱の1世紀」の始まりとなった戦争であった。
戦争の勃発 前91年、ノビレス出身の護民官ドルススは、元老院の定数拡大、農地法、植民市建設などの改革法案と共に、イタリアの同盟市住民へのローマ市民権付与法案を上程した。ところが元老院議員は、同盟市の有力者たちがドルススと行動を共にすることを神々に宣誓したことをローマ国家に対する陰謀であるとして非難し、ドルススは正体不明の暗殺者によって殺害されてしまった。ローマの元老院がドルススとその同調者の陰謀を調査するとして調査員をイタリア各地に派遣すると、同盟市側も反発し、アドリア海側の都市アスクルムでは元老院の調査員が殺害された。これをきっかけにイタリア各地で同盟諸市がローマに対して蜂起し、イタリア同盟市戦争が勃発した。
戦争の拡大 蜂起した同盟諸市は半島のアドリア海側一帯からアペニン山脈を越えてティレニア海側のカンパニア地方に広がり、中部イタリアの都市コルフィヌムに独自の民会と元老院を設け、軍指揮官を兼ねる公職者を選出し「イタリア」の国号を刻印した貨幣の鋳造も開始した。
ローマ側の譲歩 ローマはマリウスを派遣して鎮圧に当たったが、同盟諸市の激しい抵抗に手を焼き、市民権問題で譲歩をはじめた。まず前90年のユリウス法において、ポー川以南のローマに忠実な同盟市にたいして市民権を与えることが定められ、さらに同じく前90年のカルプニウス法と翌89年のプラウティウス・パピリウス法によって、一部の例外を除いて全イタリアの同盟市住民がローマ市民となることが可能となった。
ローマ軍による制圧 攻勢に出たローマ軍は、将軍スラが指揮を執り、前89年末までに、サムニウム地方やカンパニア南部の一部の都市などを除く全イタリアを制圧した。
戦争の結果 イタリア同盟市戦争の結果、同盟諸市をはじめとするイタリアの諸都市は、漸次自治市に組織がえとなり、イタリアのほぼすべての自由人がローマ市民となった。膨大な数の新市民の登録作業には容易に進まず、政争の焦点となったが、前2世紀半ば以降、30万人台で推移していた成人男子ローマ市民の登録数は、前86/前85年の戸口調査では46万3000人(96万とする説もある)、前70/前69年にようやく91万を数えるに至る。<島田誠『同上書』 p.30>
民会の機能低下 一方で、ローマ市民権の中の民会に参加し、投票するという政治的権利は、新市民はいずれも35に限定されていた旧来のローマのトリブス(選挙の単位となる居住区)に属することになっていた。民会に登録されるには、実際にローマにおもむき、戸口監察官(ケンソル)の査察を受けなければならない。ローマから遠隔地の都市の市民で新市民としてローマの民会に登録されたのは経済的に豊かな層だけだったと思われる。しかも、市民権保持者が急速に増えたことは、ローマの民会が最高議決機関としては機能しにくくなったとも考えられる。それは民会の機能低下に繋がり、ローマの政治が庇護関係(クリエンテーラ)で結ばれた私兵を有する有力者によって支配されていく背景となった。
イタリア同盟市戦争(単に同盟市戦争ともいう)は、前133年,前123年のグラックス兄弟の改革の失敗によって、中小農民の没落が進んだため、ローマ共和政の動揺が顕著になる中で起こり、ローマの「内乱の1世紀」の始まりとなった戦争であった。
イタリア半島の全住民に市民権付与
ローマは将軍マリウスの軍を派遣して鎮圧に当たったが、同盟市の反乱はイタリア全土に及び、戦いは3年に及んで戦死者は30万に達する深刻な事態となった。元老院は反乱に参加しないことを条件に市民権を認めるなど、懐柔策を採り、さらに将軍スラが前88年までに反乱を鎮圧した。しかしその結果、イタリア半島にすむ自由民はすべて市民権を持つこととなり、ローマの民会は事実上機能を果たせなくなる。イタリア同盟市戦争の経緯と意義
イタリア同盟市戦争は、高校の世界史では、マリウスとスラの争いの一環として出てくることが多いが、その歴史的な意義に言及されることは少ない。しかしこの戦争はローマの歴史にとって、ローマ共和政、ローマ市民権のあり方を大きく変えた、重要な歴史的意義のある出来事だった。その理解のためにやや詳しくその経緯を述べ、意義を考えてみよう。<以下、島田誠『古代ローマの市民社会』世界史リブレット③ 1997 山川出版社 p.27-30,51 などによる>戦争の勃発 前91年、ノビレス出身の護民官ドルススは、元老院の定数拡大、農地法、植民市建設などの改革法案と共に、イタリアの同盟市住民へのローマ市民権付与法案を上程した。ところが元老院議員は、同盟市の有力者たちがドルススと行動を共にすることを神々に宣誓したことをローマ国家に対する陰謀であるとして非難し、ドルススは正体不明の暗殺者によって殺害されてしまった。ローマの元老院がドルススとその同調者の陰謀を調査するとして調査員をイタリア各地に派遣すると、同盟市側も反発し、アドリア海側の都市アスクルムでは元老院の調査員が殺害された。これをきっかけにイタリア各地で同盟諸市がローマに対して蜂起し、イタリア同盟市戦争が勃発した。
戦争の拡大 蜂起した同盟諸市は半島のアドリア海側一帯からアペニン山脈を越えてティレニア海側のカンパニア地方に広がり、中部イタリアの都市コルフィヌムに独自の民会と元老院を設け、軍指揮官を兼ねる公職者を選出し「イタリア」の国号を刻印した貨幣の鋳造も開始した。
ローマ側の譲歩 ローマはマリウスを派遣して鎮圧に当たったが、同盟諸市の激しい抵抗に手を焼き、市民権問題で譲歩をはじめた。まず前90年のユリウス法において、ポー川以南のローマに忠実な同盟市にたいして市民権を与えることが定められ、さらに同じく前90年のカルプニウス法と翌89年のプラウティウス・パピリウス法によって、一部の例外を除いて全イタリアの同盟市住民がローマ市民となることが可能となった。
ローマ軍による制圧 攻勢に出たローマ軍は、将軍スラが指揮を執り、前89年末までに、サムニウム地方やカンパニア南部の一部の都市などを除く全イタリアを制圧した。
戦争の結果 イタリア同盟市戦争の結果、同盟諸市をはじめとするイタリアの諸都市は、漸次自治市に組織がえとなり、イタリアのほぼすべての自由人がローマ市民となった。膨大な数の新市民の登録作業には容易に進まず、政争の焦点となったが、前2世紀半ば以降、30万人台で推移していた成人男子ローマ市民の登録数は、前86/前85年の戸口調査では46万3000人(96万とする説もある)、前70/前69年にようやく91万を数えるに至る。<島田誠『同上書』 p.30>
イタリア同盟市戦争の意義
都市国家から領域国家へ イタリア同盟市戦争の結果、前88年にイタリア半島全体の自由人に同等の市民権が付与されたことによって、イタリアの諸都市は自治市となった。自治市の市民はローマ市民権の中の民法上の権利(婚姻や財産など)はローマ在住市民と同じになった。このことによって、ローマは「都市国家」からイタリア半島全域の諸都市(自治市)から構成される「領域国家」となったということができ、ローマ市民からローマ国民への変質がもたらされた。民会の機能低下 一方で、ローマ市民権の中の民会に参加し、投票するという政治的権利は、新市民はいずれも35に限定されていた旧来のローマのトリブス(選挙の単位となる居住区)に属することになっていた。民会に登録されるには、実際にローマにおもむき、戸口監察官(ケンソル)の査察を受けなければならない。ローマから遠隔地の都市の市民で新市民としてローマの民会に登録されたのは経済的に豊かな層だけだったと思われる。しかも、市民権保持者が急速に増えたことは、ローマの民会が最高議決機関としては機能しにくくなったとも考えられる。それは民会の機能低下に繋がり、ローマの政治が庇護関係(クリエンテーラ)で結ばれた私兵を有する有力者によって支配されていく背景となった。