告白/告白録
4世紀、教父アウグスティヌスが著した自伝。青年期の過ちやマニ教への入信を告白し、キリスト教への回心を述べ、三位一体論などを展開した書物。
ローマ帝国の国教であったキリスト教が、西ローマ帝国滅亡後も生き残り、中世ヨーロッパのローマ=カトリック教会へと脱皮していく上で、アウグスティヌスの果たした役割は大きかった。そのアウグスティヌスが、若い頃の過ちを赤裸々に告白し、その中からキリスト教に回心した過程を詳細に述べ、新たなキリスト教信仰のあり方を説いた書物が、400年ごろに著した書物が『告白』(告白録)である。アウグスティヌスはこの書や『神の国』の著述によって、キリスト教の正統神学の確立に寄与したとされ、教父の一人、しかも最大の教父と讃えられていて、後世のキリスト教信者だけでなく、人生論や哲学にも大きな影響を与えた。
以下、山田晶の訳で、アウグスティヌス自身の告白のいくつかを拾っていこう。<以下、アウグスティヌス/山田晶『告白』Ⅰ~Ⅲ ちくま学芸文庫>
・16歳で愛人と同棲 私はかつて青年時代、下劣な情欲をみたそうと燃えあがり、さまざまなうすぐらい情事のうちに、みずからすさんでいきました。・・・私をよろこばせたのは、「愛し愛される」、ただそれだけでした。けれども私は、明るい友情の範囲内に、魂から魂への節度を保つことができず、泥のような肉欲と泡だつ青春からたちこめた靄(もや)で、心はぼやけてうすぐらく、ついには、はれやかな愛と暗い情欲との区別がつかなくなってしまいました。この二つが混合してわきたち、若年の私をひきさらって、欲望の淵につき落とし、醜行の泥沼の中に鎮めていったのです。(第2巻第1,2章 p.69 その他、仲間とつるんだ窃盗など無頼漢同然だったことが語られる。) → アウグスティヌスと女性
・恋に恋して 私はカルタゴにきた。するとまわりのいたるところに、醜い情事のサルタゴ(大鍋)がぶつぶつと音をたててにえていました。私はまだ恋をしていませんでしたが、恋を恋していました。そして欠乏をそれほど感じない自分をにくんでいましたが、それは内奥に欠乏がひそんでいたからなのです。(第3巻第1章 p.99 )
・学校でのいじめ (カルタゴでは弁論術を学ぶ修辞学校に入り、「うまく人をだますほど、ますますほめられ」首席となって増上慢にふくれあがった。しかし、そこでみた学生の行状は)彼らはその乱暴でもって、おどおどしている新入生たちにあつかましくからみついてゆき、何の理由もなしになぶり者にしていじめ、それで意地の悪い快楽を満喫していました。これ以上、悪霊に似た行為はありません。(第3巻第3章 p.108 今も昔もいじめはあったということか)
・だまされながらだまし・・・青年の苦悩 「十九から二十八歳にいたる九年間、私たちはさまざまな情欲のままに、迷わされながら迷わし、だまされながらだましていました。おもてだっては、自由学芸と称されるもろもろの学問を通じ、かくれては、宗教の虚名のもとに、前においてはたかぶり、後においては迷信深く、しかし、そのいずれにおいても私たちはむなしかった。」(第4巻第1章 p.145)
・愛人との間に子供が生まれる 「その年ごろ、私は一人の女性と同棲するようになていましたが、それはいわゆる合法的な婚姻によって識りあった仲ではなく、思慮を欠く落ち着きのない情熱にかられて見つけ出した相手でした。けれども私は、彼女一人をまもり、彼女に対して閨の真実を尽くしました。この女性との関係において私は、自分の経験によって、子を産むことを目的に結ばれる婚姻の契約の節度と、情欲的な愛による結合とのあいだに、何という大きなへだたりがあるかを、身にしみて知らされました。情欲的結合の場合にも、子は親の意に反して生まれます。いったん生まれると、その子は愛さずにはいられなくなるものです。」(第4章第2節 p.148 このあたり、某代議士や「五体不満足」だった彼に読ませたいところです)
翌年、アウグスティヌスは母モニカの望み通り、愛人と別れ、母の勧める女性と正式な婚約をした。このころから新プラトン学派の霊的世界に目覚め、使徒パウロの書簡からも強い感銘を受け、生涯を神に捧げる決意をし、学校をやめる。そして33歳になった387年、洗礼を受け、積極的にマニ教批判を開始する。36歳の時、かつての愛人との間の子アデオダトゥスが死ぬ。ローマ皇帝テオドシウスがキリスト教を国教と定められたころ、アウグスティヌスは391年にカルタゴの郊外、ヒッポの司祭となり、さらに396年には司教に任じられた。ヒッポではマニ教批判に続いて、ドナティスト派やペラギウス派という異端と厳しい宗教論争を続けながら、信仰を確固たるものにしていった。そのアウグスティヌスが、43歳で書き始めたのが『告白』であり、46歳の400年に書き終わった。その後も多くの著作を著したが、主著『神の国』は59歳で着手し、72歳の426年に完成させた。その晩年は、ゲルマン民族大移動のなみが北アフリカにまでおよび、ヴァンダル人の侵攻が始まっていた。ヴァンダル人がヒッポの町を包囲する中、430年8月28日にアウグスティヌスは息を引き取った。<『告白』Ⅰ ちくま学芸文庫 年譜より>
そして第11巻からはがらりと内容が変わり、旧約聖書「創世記」の解釈を内容としている。それは、マニ教が旧約聖書をユダヤ人の書として価値を認めない事に対する反論であり、旧約と新約をともに聖書として拠り所とするローマ=カトリック教会の基本的な見解を形成した。それだけではなく、アウグスティヌスは「始めに神は天地を造りたもうた」という聖書の言葉に対して、それ以前に神は何をしていたのか、という問いを発し、そこから「時間論」を展開していく。
日本語訳には岩波文庫の服部英次郎訳と中公文庫の山田晶訳があるが、山田晶訳と同氏の『アウグスティヌス講話』を併せて読むのが、最も手っ取り早い理解になるだろう。
アウグスティヌスの告白
それでは、アウグスティヌスはいったいどのようなことを「告白」しているのだろうか。今その告白を読んでみると、4世紀から5世紀(日本でいえば大和王権の成立の頃)という遠い昔に、こんなにも自己と向き合い、自らの行いを虚飾なく語った人がいたことにまず驚かされる。またその書からはローマ末期の地中海世界に生きた人びとも、現代人と同じように悩み、苦しみ、そして楽しんでいたことを読み取ることができる。神に対する告白は、結局は信仰の不十分であった自己を責めることであり、絶対の神を称賛することが目的なのであるが、かといってこの書を宗教書に過ぎないと書名だけ記憶に留めておこうというのはもったいない。この書はかつては『懺悔録』と訳されていたが、密室での神への懺悔ではなく、他者に向けて一人の青年の生き方を自伝的に述懐したものであり、自伝文学の最初の傑作と言えるのではないだろうか。以下、山田晶の訳で、アウグスティヌス自身の告白のいくつかを拾っていこう。<以下、アウグスティヌス/山田晶『告白』Ⅰ~Ⅲ ちくま学芸文庫>
青年の放蕩、無頼
・幼年期の過ち あなたのまなざしの前に、私よりいとわしい者ががあったでしょうか。遊び好きで、くだらない見世物を見たがり、芝居のまねをして落ち着かず、数えきれないうそをつき、家庭教師、学校の先生、両親をだますので、みな私にはてこずっていました。のみならず、親の地下室や食卓から盗んだこともあります。食欲にそそのかされてしたこともありますが、ある場合は、遊び友達の玩具とひきかえに相手にやるべきものを手にいれるためにしたのです。(第1巻第19章 p.62 現代ならゲームに夢中で親の金にも手を出してしまった、といったところか)・16歳で愛人と同棲 私はかつて青年時代、下劣な情欲をみたそうと燃えあがり、さまざまなうすぐらい情事のうちに、みずからすさんでいきました。・・・私をよろこばせたのは、「愛し愛される」、ただそれだけでした。けれども私は、明るい友情の範囲内に、魂から魂への節度を保つことができず、泥のような肉欲と泡だつ青春からたちこめた靄(もや)で、心はぼやけてうすぐらく、ついには、はれやかな愛と暗い情欲との区別がつかなくなってしまいました。この二つが混合してわきたち、若年の私をひきさらって、欲望の淵につき落とし、醜行の泥沼の中に鎮めていったのです。(第2巻第1,2章 p.69 その他、仲間とつるんだ窃盗など無頼漢同然だったことが語られる。) → アウグスティヌスと女性
・恋に恋して 私はカルタゴにきた。するとまわりのいたるところに、醜い情事のサルタゴ(大鍋)がぶつぶつと音をたててにえていました。私はまだ恋をしていませんでしたが、恋を恋していました。そして欠乏をそれほど感じない自分をにくんでいましたが、それは内奥に欠乏がひそんでいたからなのです。(第3巻第1章 p.99 )
・学校でのいじめ (カルタゴでは弁論術を学ぶ修辞学校に入り、「うまく人をだますほど、ますますほめられ」首席となって増上慢にふくれあがった。しかし、そこでみた学生の行状は)彼らはその乱暴でもって、おどおどしている新入生たちにあつかましくからみついてゆき、何の理由もなしになぶり者にしていじめ、それで意地の悪い快楽を満喫していました。これ以上、悪霊に似た行為はありません。(第3巻第3章 p.108 今も昔もいじめはあったということか)
マニ教に入信
・カルタゴでマニ教に入信 「・・・私は、傲慢で気の狂った人間たち、きわめて肉的でおしゃべりな人間たち(マニ教徒のこと)の中におちこんでしまいました。・・・彼らは“真理、真理”といいって、それについてたくさんのことを聞かせてくれましたが、真理は彼らのうちのどこをさがしてなく、あなたの被造物たるこの世の諸元素についても、でたらめをいっていました。」(第3巻第6章 p.114)・だまされながらだまし・・・青年の苦悩 「十九から二十八歳にいたる九年間、私たちはさまざまな情欲のままに、迷わされながら迷わし、だまされながらだましていました。おもてだっては、自由学芸と称されるもろもろの学問を通じ、かくれては、宗教の虚名のもとに、前においてはたかぶり、後においては迷信深く、しかし、そのいずれにおいても私たちはむなしかった。」(第4巻第1章 p.145)
・愛人との間に子供が生まれる 「その年ごろ、私は一人の女性と同棲するようになていましたが、それはいわゆる合法的な婚姻によって識りあった仲ではなく、思慮を欠く落ち着きのない情熱にかられて見つけ出した相手でした。けれども私は、彼女一人をまもり、彼女に対して閨の真実を尽くしました。この女性との関係において私は、自分の経験によって、子を産むことを目的に結ばれる婚姻の契約の節度と、情欲的な愛による結合とのあいだに、何という大きなへだたりがあるかを、身にしみて知らされました。情欲的結合の場合にも、子は親の意に反して生まれます。いったん生まれると、その子は愛さずにはいられなくなるものです。」(第4章第2節 p.148 このあたり、某代議士や「五体不満足」だった彼に読ませたいところです)
キリスト教への回心
青年アウグスティヌスの愛人との同棲やマニ教入信は、その母モニカを大いに嘆かせた。アウグスティヌスは修辞学教授として地位を高めていった。29歳の時、ローマから来たマニ教の高名な司教の話を聞いたが、その空疎な話に失望し、次第にマニ教への疑問を持つようになった。30歳になった384年、国立学校の修辞学教授としてミラノに行く。そこでアンブロシウスにあい、その聖書の解釈に驚き、キリスト教を見直すようになった。翌年、アウグスティヌスは母モニカの望み通り、愛人と別れ、母の勧める女性と正式な婚約をした。このころから新プラトン学派の霊的世界に目覚め、使徒パウロの書簡からも強い感銘を受け、生涯を神に捧げる決意をし、学校をやめる。そして33歳になった387年、洗礼を受け、積極的にマニ教批判を開始する。36歳の時、かつての愛人との間の子アデオダトゥスが死ぬ。ローマ皇帝テオドシウスがキリスト教を国教と定められたころ、アウグスティヌスは391年にカルタゴの郊外、ヒッポの司祭となり、さらに396年には司教に任じられた。ヒッポではマニ教批判に続いて、ドナティスト派やペラギウス派という異端と厳しい宗教論争を続けながら、信仰を確固たるものにしていった。そのアウグスティヌスが、43歳で書き始めたのが『告白』であり、46歳の400年に書き終わった。その後も多くの著作を著したが、主著『神の国』は59歳で着手し、72歳の426年に完成させた。その晩年は、ゲルマン民族大移動のなみが北アフリカにまでおよび、ヴァンダル人の侵攻が始まっていた。ヴァンダル人がヒッポの町を包囲する中、430年8月28日にアウグスティヌスは息を引き取った。<『告白』Ⅰ ちくま学芸文庫 年譜より>
時間論と三位一体論
『告白』は、アウグスティヌスの赤裸々な自伝の体裁を取りながら、人間の愛と苦悩を見つめる神の存在を確信する内容へと深まっていく。そして第10巻以降は、神と人間の唯一の仲介者キリストへの信仰を告白する。それは「ただ神のうちにのみ希望とよろこびとがある」という確信の吐露であり、自信に満ちあふれた筆致となっていく。そして第11巻からはがらりと内容が変わり、旧約聖書「創世記」の解釈を内容としている。それは、マニ教が旧約聖書をユダヤ人の書として価値を認めない事に対する反論であり、旧約と新約をともに聖書として拠り所とするローマ=カトリック教会の基本的な見解を形成した。それだけではなく、アウグスティヌスは「始めに神は天地を造りたもうた」という聖書の言葉に対して、それ以前に神は何をしていたのか、という問いを発し、そこから「時間論」を展開していく。
(引用)ではいったい時間とは何でしょうか。だれも私にたずねないとき、私は知っています。たずねられて説明しようと思うと、知らないのです。しかし、「私は知っている」と、確信をもっていえることがあります。それは、「もし何ものも過ぎさらないならば、過去の時はないであろう。何ものもやってこないならば、未来の時はないであろう。何ものもないならば、現在の時はないだろう」ということです。<アウグスティヌス/山田晶『告白』Ⅲ ちくま学芸文庫 p.38>以下の時間論は省略しますが、これは現代哲学の時間論にも影響を及ぼしているテーマの一つです。また、ローマ=カトリック教会の正統的教義の柱である三位一体説についても、アウグスティヌスはするどい哲学的な考察を加えています。『告白』は単なる宗教書ではなく、中世のスコラ学につながる哲学史の中に位置づけられている哲学書である。
日本語訳には岩波文庫の服部英次郎訳と中公文庫の山田晶訳があるが、山田晶訳と同氏の『アウグスティヌス講話』を併せて読むのが、最も手っ取り早い理解になるだろう。