アウグスティヌス
4~5世紀、西ローマ時代、北アフリカで活動した教父。『告白録』『神の国』などを著し、ローマ=カトリック教会の理念を確立させ、中世以降のキリスト教に多大な影響を与えた。
アウグスティヌス
ボッティチェッリ筆 1480
384年、ミラノに行きアンブロシウスの説教を聞き、また新プラトン主義の哲学に触れて思索を深め、キリスト教に回心した。アフリカにもどり、ヒッポの司教として、マニ教などの異教やキリスト教の異端との論争を通じて、次第にカトリック教会としてのキリスト教理論をうち立てていった。カルタゴでの青年期の素行やマニ教への入信を告白し、キリスト教への回心の経緯をつづった『告白』(400年ごろ)は、古代キリスト教文学の傑作とされ、後世に大きな影響を与えた。また、西ローマ帝国の衰退という現実の中でカトリック教会のあり方を論じた『神の国』(426年)は、カトリック教会の存在意義を明らかにし、中世キリスト教思想の基盤となった。430年、ヴァンダル人の王ガイセリックがカルタゴに侵入、ヒッポを包囲する中で、75歳で病死した。
アウグスティヌスの思想 彼の思想は、ローマ帝国の国教となったキリスト教を、国家に奉仕する宗教としてではなく、この世に「神の国」を出現させるものとして教会を位置づけ、教会の恩寵を説き、その典礼を定めたもので、世俗の国家に超越する「教会」(ローマ教皇を中心とした聖職者の組織)という中世ヨーロッパのもっとも根幹となる思想の原型を造ったと言える。
また、カトリックの中心思想である三位一体説は、アウグスティヌスによってさらに理論つけられた。その著作は多いが、主著の『神の国』『告白録』などは、中世の神学の基礎とされ、スコラ学のトマス=アクィナスなどに大きな影響を与えた。また、宗教改革のルターにも彼の著作から多くを学んでおり、近代ヨーロッパの思想家にもたびたび取り上げられている。
アウグスティヌスの歴史的役割 ローマ帝国の国教であったキリスト教、ローマ=カトリック教会は、異教徒であるゲルマン人の侵攻、特に410年の西ゴート人のローマ占領によって大きな衝撃を受けた。そして一挙に西ローマ帝国の滅亡に向かった。しかしそれにもかかわらず、キリスト教はその後も生きながらえてヨーロッパの人々の精神を捉え、教皇を頂点とした教会が中世ヨーロッパ最大の勢力となったことにはアウグスティヌスの思想が重要な働きがあった。つまり、教会が「神の国」として位置づけられたためである。しかし、カトリック教会はアウグスティヌスが想定した「神の国」の範疇を超え、世俗の国家と同じような富と権力をもつ「現世の国」へと変質してしまい、宗教改革が興り、ヨーロッパの近代国家との相克が(現代まで)続くこととなる。
アウグスティヌスと女性
アウグスティヌスといえば、『告白』に述べられた、いかがわしい女との同棲と、それを諫め、彼を放蕩生活から立ち直らせて立派なキリスト教の教父へと導いた母モニカの存在が知られている。しかし、そのような解釈が一面的にすぎることを教えてくれるのが、山田晶『アウグスティヌス講話』である。山田晶氏は、それまで光が当てられてこなかったアウグスティヌスの同棲した女性について考察をすすめ、『告白』では必ずしも明確ではないこの女性との関係を探っている。通説ではこの女性の身分はコンクビーナであったとされ、妾(めかけ)と訳されている。アウグスティヌスは16歳から回心にいたるまで16年間もこの「不義の女性を囲い」、不義の子アデオダートスをもうけた、とされる。しかし、アウグスティヌスには本妻がいたわけではないので妾とは言えず、実際は本妻だった。彼自身も、「彼女一人をまもり、彼女に対して閨(ねや)の信実をつくしました」<『告白』Ⅰ p.148>と言っている。当時のローマの法律では身分が違うため合法的な結婚と認められなかったのだった。アウグスティヌスは修辞学の教授になろうとしてミラノに移るときもこの女性と子供を連れて行った。彼女は非合法の妻として彼を支えたに違いない。
母モニカは、アウグスティヌスの非合法の結婚を認めなかった。ミラノまで押しかけたモニカは息子に迫る。大学教授となるためには社会的に認められない結婚は解消し、合法的な結婚をしなさいという母心であったろう。アウグスティヌスも若い頃はそんな母に反発していたが、いよいよ大学教授への出世が近づくと、彼女と別れ、母の勧める若い女と婚約する。彼女はどうなったか。
(引用)これまで閨を共にしてきたその女性は、婚姻の妨げとして、私のかたわらから引き離されたので、彼女にしっかり結びついていた私の心は引き裂かれ、傷つけられて、だらだらと血を流しました。その時彼女はあなた(神)に向かって、今後他の男を知るまいと誓い、私のかたわらに彼女から生まれた私の息子を遺して、アフリカに帰っていきました。<アウグスティヌス/山田晶『告白』Ⅰ ちくま学芸文庫 p.311>その後のこの女性がどうなったかはわからない。伝説によればアフリカに帰った後、修道院に入り、一生を終えたといわれている。ところがアウグスティヌスは、婚約した女性が若く、あと二年たたないと一緒になれないからか、別の女を引き入れている。これはさすがにアウグスティヌスの汚点といわなければならない。彼自身もさすがに「わざわいにもこの女性にならうこともできず・・・」と弁解している。この女性と別れた後、むなしい心を引きずりながら、その心は次第に神に向かっていく。
山田氏はこのアウグスティヌスの肉欲への執心、そしてその反面のはげしい肉欲への罪悪感は、厳しく肉欲を禁じるマニ教の影響ではないか、と見ている。そしてキリスト教への回心の動機もこの女性との別離にあったのではないか、と推測している。
(引用)アウグスティヌスは・・・十六年間、その女性を守り通した。ある意味においては、その女性を守るために、一時は母も捨て、苦しみ悩みました。そしてその女性と別れた後に、第二の女性を妻として持ったかといえば、ちょとした間違いはあったかも知れないが、結局は妻を持たなかったのです。そうすると、事実上、アウグスティヌスが妻とした人は、ただこの人だけということになります。そして、この女性と別れた後、この世のことは、すべて空しくなってしまった。ただ一つのあやまちは、その空しさを埋めようとする空しい努力であった。しかしその空しい努力は、いっそうの空しさとなってはねかえってくる。ただ一つ肉の欲だけがすべてを空しいと感じているアウグスティヌスの肉体のうちに重苦しく澱んでいる。その欲から解放されることは、結局アウグスティヌスにはできなかった。ただ神の恩寵だけが、彼をこの肉欲の泥沼から救った。アウグスティヌスの絶対恩寵主義は、この女性との関わりのうちに根源を持っています。私はそのように考えます。<山田晶『アウグスティヌス講話』1986 新地書房 p.36>