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ローマ=カトリック教会

ローマ教皇を神の代理人とするキリスト教の主流となった教会組織。ローマ帝国の国教となって地中海世界に広がり、さらに8世紀からはフランク王国と結びついてヨーロッパに定着し、教皇を頂点とした聖職者位階制を形成した。反面、聖像禁止令をめぐってコンスタンティノープル教会との分裂、10世紀以降は神聖ローマ帝国の保護を受けた。しかし、聖職叙任権をめぐり皇帝と対立し、13世紀まで優位に立って教皇権は全盛期を迎えた。一方で教会の堕落などに対する批判も始まり、16世紀初めドイツのルター、フランスのカルヴァンなど宗教改革が始まり、新教(プロテスタント)が成立すると、旧教といわれるようになる。その後、激しい宗教戦争が展開された。現在はローマ=カトリック教会の信者数は12億人と言われている。

 イエスの教えから始まるキリスト教の主流として、現在に至るまで大きな勢力を持っている教団。カトリックという言葉は、普遍的とか世界的とかを意味するギリシア語のカトリコスからきたもの。ローマ教会(聖ペテロ教会)はイエスの使徒のリーダーだったペテロが建てたものとされ、キリスト教の五本山の中でも特別な地位が与えられ、ローマ司教はローマ教皇(法王)と言われるようになった。

ローマ教会の成立

   イエスの十二使徒の一人、ペテロが創建したとされるローマ教会(聖ピエトロ教会)の司教は、キリスト教信仰の中でペテロの後継者という特別の地位が与えられていた。しかしはじめは、五本山の一つにすぎず、またローマ帝国の国教となってからは、ローマ皇帝が教会に対する命令権を持っていたため、その保護を受けながら、皇帝に服さなければならなかった。

正統の確立

 キリスト教は313年ミラノ勅令でローマ帝国のもとで信仰が認められ、さらに392年キリスト教は国教とされるが、その間に教義の統一の必要がでてきたため、325年のコンスタンティヌス大帝のニケーア公会議の招集以来、8世紀までにロー皇帝主催でたびたび公会議を開催していった。その過程でアタナシウスの唱える三位一体説が正統とされ、教義を確立させた。その後もいくつかの異端が現れたが、5世紀初めにはアウグスティヌスなどの教父によって三位一体説などのキリスト教神学が深められた。

教会と修道院

 北アフリカのカルタゴで異教のマニ教に入信するなどの過ちを犯したのち回心した教父アウグスティヌス426年に『神の国』を著し、教会を現世における神の国と位置づけて信仰の拠り所とした。それによって、キリスト教はローマ帝国の国教であったにもかかわらず、その滅亡後も存続できたと考えられる。ゲルマン人支配下のヨーロッパにおいても各地に教会が建設され、聖職者が配置されていった。また5世紀頃、アイルランドにおいて修道院が生まれ、信仰の修業と聖書研究や写本の製作を通じてキリスト教文化を深める場となっていった。

東方教会との対立

 西ローマ帝国滅亡後は、その保護者を失ったので、東ローマ皇帝を頼らざるを得なくなった。ローマも西ゴートのアラリックや、フン人のアッティラなどの掠奪を受けて教会も存亡の危機に立たされたが、アッティラの侵入の際はレオ1世がアッティラを説得して平和を守ったと伝えられている。こうしてローマ司教の名声は上がったが、東ローマ帝国の繁栄を背景にしたコンスタンティノープル教会とは、次第に東方教会ギリシア正教)としてローマ教会と対抗していくようになる。

ローマ教会の危機

 次第に東ローマ帝国のコンスタンティノープル教会との間で、教会の首位権を争うようになっていたが、ローマ教会は西ローマ帝国滅亡後、イタリアがオドアケルの国、東ゴート王国、ランゴバルト王国というゲルマン人諸国の支配を受けた。これらのゲルマン諸国は文化面ではローマ化していったが、信仰面では異端とされるアリウス派を信仰していたため、ローマ教会は苦境に立たされた。

フランク王国との結びつき

 その窮地を救ったのがフランク王国であり、496年クローヴィスの改宗は、フランク王国とローマ教会の結びつきの端緒となり、ビザンツ帝国およびコンスタンティノープル教会と対抗することができるようになる。
グレゴリウス1世 6世紀にはベネディクトゥスによる修道院運動が始まり、ローマ教皇グレゴリウス1世はベネティクト派の修道士を派遣してゲルマン人への布教を積極的に進め、西ヨーロッパの隅々まで教会組織を拡張し、カトリックの典礼を定め、実質的な最初のローマ教皇としてカトリック教会の基礎を確立した。

聖像崇拝問題

 7世紀には東方のアラビア半島にムハンマドが現れ、同じ一神教であるイスラーム教を創始し、ビザンツ帝国領を脅かすようになった。それに対抗するため東方教会は726年聖像禁止令を出し、聖像による布教を認めるローマ=カトリック教会との間で対立が表面化した。ローマ教会ではゲルマン人への布教などで聖像は不可欠であったので聖像禁止令に反対した。聖像禁止令そのものは843年に取り消され、イコン使用が認められたが、その後は教会管区の問題や教義上、典礼上の違いも明確となって東西教会の分離は次第に明確になっていく。

カロリング朝フランク王国

 この間、フランク王国では732年トゥール・ポワティエ間の戦いでイスラーム軍を撃退したカール=マルテルの子の ピピンは、751年カロリング朝を開いた。同じ年、ビザンツ帝国の総督府の置かれていたラヴェンナランゴバルド王国に奪われ、ビザンツ帝国の統治が北イタリアから離れると、ローマ教会は新たな保護者を得る必要が出てきた。

教皇領の成立

 そのような事情から、754年、ローマ教皇ステファヌス2世は、カロリング朝フランク王国を承認、ピピンの王位を認めた。その返礼として756年、ピピンのフランク国は出兵し、ラヴェンナ地方を奪回して、ローマ教皇に寄進した。このピピンの寄進によってローマ教皇領が成立し、ローマ=カトリック教会は経済的基盤を得て封建領主となり、政治的な力も持つようになった。それはローマ教会が東方教会(ギリシア正教)に対して優位となる条件となった。

カールの戴冠

 800年にはローマ教皇レオ3世は、フランク王国のカロリング朝カール大帝にローマ皇帝の帝冠を授け、このカールの戴冠によって西ヨーロッパ世界は宗教的にも政治的にも東方世界と分離することになった。カールはキリスト教世界の保護者として東方ではアヴァール人の侵入を撃退し、イベリア半島ではイスラーム軍と戦い、フランク王国の領土を拡張した。

東西教会の分離

 9世紀末から11世紀半ばまで、ローマ教会は聖職売買や聖職者の妻帯などのローマ教皇の腐敗が深刻になっていった。またフランク王国もカール大帝の死後、分割相続のため西フランク、東フランク、中部フランクの三つに分裂し、争うようになった。その中であたらなローマ教会の保護者となったのが東フランクのオットー1世であった。オットー1世は東方からのマジャール人を撃退し、またイタリアにも進出し、962年には教皇ヨハネス12世からローマ皇帝の帝冠を受けた。このオットーの戴冠は、後に神聖ローマ帝国の始まりとして位置づけられ、神聖ローマ皇帝のもとで教皇・聖職者は皇帝や国王などの世俗の権力に従属する傾向が強くなった。また、東西教会の対立も決定的になり、両者は長い交渉の後、ついに1054年に互いに相手を破門し合ってキリスト教教会は東西に分裂することとなった。

グレゴリウス改革

 東西教会の分離と同時に、ローマ=カトリック教会は、ローマ教皇を頂点とした聖職者階層制組織(ヒエラルキア)をつくりあげ、西ヨーロッパ世界の政治・社会・文化の上で重要な存在となっていった。11世紀後半にはグレゴリウス7世は「グレゴリウス改革」といわれる教会の綱紀粛正に努め、叙任権闘争を通じて世俗の皇帝権力を上回る権威を確立した。

十字軍運動と教皇権の最盛期

 そのような権威を背景に11世紀末、ウルバヌス2世クレルモン宗教会議で提唱した十字軍運動は、ローマ教皇権が最盛期に向かう中で実施された。第1回十字軍はイェルサレム占領に成功したこともあってローマ教皇の権威が一段と高まり、同時にイベリア半島ではレコンキスタが展開され、ドイツ人の東方植民スラヴ人居住地に及んでいって、ヨーロッパ全域でキリスト教世界の膨張する動きが出てきた。
 キリスト教教会は中世においては一定の平和維持機能の役割も果たしていたことは、11世紀を中心に神の平和といわれる運動が展開され、「神の休戦」が呼びかけて領主間の争いを調停することも行われた。
 こうして、西ヨーロッパでは、13世紀に教皇インノケンティウス3世のもとで、ローマ=カトリック教会の全盛期を迎えることとなる。
→ ローマ教皇権の衰退 宗教改革
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