ハルシャ=ヴァルダナ
7世紀に北インドを統一してヴァルダナ朝を建てた人物。仏教、ヒンドゥー教いずれも保護にあたり、塔とも交渉するなど栄えたが、王国はその死後に急速に衰えた。
7世紀初めの606年、北インドを統一したヴァルダナ朝の王。単にハルシャ王ともとも表記。在位は646年までで、ヴァルダナ朝は一代で終わった。中国では戒日王として知られる。仏教とともにヒンドゥー教も保護し、インド古典文化の最後の繁栄を出現させた。
ハルシャ王ははじめシヴァ神の信奉者であったが、次第に仏教に心を移し、晩年には熱心な仏教徒となった。その宮廷には王の伝記『ハルシャチャリタ』を著したサンスクリット詩人バーナがいたが、王自身も文人としてサンスクリット劇などの作品を残している。<辛島昇『インド史』角川ソフィア文庫 p.69-70>
北インド統一を回復
グプタ朝が6世紀の中頃、エフタルの侵入によって衰えた後、デリー北方のターネーサルの王であったハルシャ=ヴァルダナが、606年に北インドの統一を回復、カナウジを都に60年間、統治した。ハルシャ王はベンガル地方の勢力との戦いを手始めに、各地を転戦し、数年のうちに北インドの大半を領土とした。王国には5千頭の象、2万の騎兵、5万の歩兵がいたといわれるが、北方のカシミール、西方のヴァラビー、東方のアッサムの勢力も彼に臣従を誓うようになった。ただ一つ彼が敗北したのは、南方の戦いで、デカン西部のチャールキヤ朝を攻め、プラケーシン2世に敗れたことだった。西方のヴァラビーをイラン系のマイトラカ朝から奪ってから、ヴァラビーは学術の中心地となり、多くの仏教寺院も建立された。ハルシャ王ははじめシヴァ神の信奉者であったが、次第に仏教に心を移し、晩年には熱心な仏教徒となった。その宮廷には王の伝記『ハルシャチャリタ』を著したサンスクリット詩人バーナがいたが、王自身も文人としてサンスクリット劇などの作品を残している。<辛島昇『インド史』角川ソフィア文庫 p.69-70>
唐との交渉
この時代、中国の唐の僧玄奘が仏典を求めてインドに来たことが特筆される。玄奘はインド各地を回り、唐にもどって旅行記『大唐西域記』を書いた。また641年、唐の太宗に使節を送り、唐王朝は答礼使として王玄策を派遣したことが知られている。