玄奘
唐の僧。7世紀前半太宗の時、仏典を求めて陸路インドに往復し、多くの仏典を持ち帰り、仏教の興隆に努めた。その旅行記は『大唐西域記』である。
げんじょう、またはげんぞうとよむ。かの『西遊記』の主人公三蔵法師である。7世紀初めに現在の河南省に生まれた。ちょうど隋が倒れ唐が建国した618年、17歳で長安に上り仏教の学ぶこととなった。しかし建国したばかりの唐の都にはまだ落ち着いて仏教を学ぶ環境が無く、戦乱の及んでいなかった四川に赴く。その後各地で仏教を学ぶが、飽き足らないものを感じ、ブッダの生国インドで直接仏典を学びたいという欲求が強くなる。
昼間は隠れ、夜間に西を目指すという苦労をしながら唐の領域を抜けて西域に入り、高昌国、クチャなどタクラマカン砂漠を抜けて、さらにパミール高原の北側を廻り、西突厥を通ってタラス、サマルカンド、バーミヤンなどを訪ね、ついにインドに達しガンダーラに入った。さらに北インド各地を旅して仏跡を尋ねた。
そのころのインドは、ヴァルダナ朝のハルシャ王の時代で、仏教は保護されていたが、ヒンドゥー教も盛んになりつつあった。玄奘はナーランダ寺付属の学校(ナーランダー僧院)で5年間、仏典の研究を行った。帰路は多くの仏典を背負い、同じく中央アジア経由で645年に長安に帰った。17年にわたる大旅行であった。
玄奘はインドから仏典や論疏(理論書)をもたらし、その漢訳にあたった。現在、私たちが読むことができる『般若心経』は玄奘の漢訳した経典である。また論疏の中で重要な唯識論を深く学んだ弟子の慈恩大師は法相宗を興した。
玄奘が自らインドの仏典を持ち帰り、漢訳した経典は、それ以前の鳩摩羅什らの「旧訳」にくらべてより正確な翻訳であったので「新訳」といわれ、広く用いられるようになった。玄奘に遅れて7世紀の後半に、同じくインドに渡って仏教を学んだ義浄が伝えた経典とともに、唐の仏教の隆盛がもたらされ、さらに仏教はこの時代に天台宗・浄土宗・密教・禅宗など中国独自の展開も始まった。この中国仏教の大きな流れは、日本も含めてのアジアに広がり、定着していくが、玄奘はその歴史の中で大きな役割を果たしたと言える。
日本の現在の法相宗は興福寺と薬師寺を両本山としているが、そのいずれにおいても宗派の祖は慈恩大師としている。法相宗の説明によると、玄奘の弟子の窺基(きき)が慈恩寺において師の持ち帰った唯識論の理論書『成唯識論』の翻訳につとめ、その理論を極めることによって「慈恩大師」の号を贈られ、「法相宗」を大成して宗派の始祖となった、としている。それに従えば、玄奘は法相宗の始祖または開祖ではないことになる。参考書によっては「鼻祖」としている。ただ慈恩大師の師が玄奘であるので、高校世界史の理解では「玄奘は法相宗を開いた」と言って誤りとはされないであろう。「玄奘(の弟子の慈恩大師)が法相宗を開いた」とすべきところをカッコを省いて単純化してしまった、ということか。
薬師寺では中国から伝えられた玄奘の遺骨の一部を分骨として1981年に新たに「玄奘三藏院伽藍」を建造した。その玄奘塔の正面には「不東」とある。これは、玄奘が長安を出てインドに向かう際に、仏典を得るまでは決して東に帰らない、という決意を示した言葉だという。 → 奈良薬師寺・玄奘三藏院伽藍
玄奘のインド旅行
当時、唐は個人が外国に出ることを禁じていたので、やむなく玄奘は秘密裏に長安を出発した。唐の太宗の貞観3年(629年)、玄奘26歳であった。昼間は隠れ、夜間に西を目指すという苦労をしながら唐の領域を抜けて西域に入り、高昌国、クチャなどタクラマカン砂漠を抜けて、さらにパミール高原の北側を廻り、西突厥を通ってタラス、サマルカンド、バーミヤンなどを訪ね、ついにインドに達しガンダーラに入った。さらに北インド各地を旅して仏跡を尋ねた。
そのころのインドは、ヴァルダナ朝のハルシャ王の時代で、仏教は保護されていたが、ヒンドゥー教も盛んになりつつあった。玄奘はナーランダ寺付属の学校(ナーランダー僧院)で5年間、仏典の研究を行った。帰路は多くの仏典を背負い、同じく中央アジア経由で645年に長安に帰った。17年にわたる大旅行であった。
帰国後の玄奘
彼は長安の慈恩寺でインドの仏典の漢訳に従事した。その旅行は弟子たちがまとめた『大唐西域記』がある。後に元の時代にそれを種本にしておもしろく読み物にしたのが呉承恩の『西遊記』である。玄奘はインドから仏典や論疏(理論書)をもたらし、その漢訳にあたった。現在、私たちが読むことができる『般若心経』は玄奘の漢訳した経典である。また論疏の中で重要な唯識論を深く学んだ弟子の慈恩大師は法相宗を興した。
玄奘が自らインドの仏典を持ち帰り、漢訳した経典は、それ以前の鳩摩羅什らの「旧訳」にくらべてより正確な翻訳であったので「新訳」といわれ、広く用いられるようになった。玄奘に遅れて7世紀の後半に、同じくインドに渡って仏教を学んだ義浄が伝えた経典とともに、唐の仏教の隆盛がもたらされ、さらに仏教はこの時代に天台宗・浄土宗・密教・禅宗など中国独自の展開も始まった。この中国仏教の大きな流れは、日本も含めてのアジアに広がり、定着していくが、玄奘はその歴史の中で大きな役割を果たしたと言える。
玄奘と法相宗
現在の高校生が目にする世界史用語集では、玄奘の説明で、ほとんどが「経典の翻訳につとめ、これによって法相宗を開いた」(山川出版)、「仏典の漢訳に務め、法相宗を開いた」(実教出版)としている。また法相宗の項目を立て「中国の仏教宗派の一つ。中国十三宗の一つで、玄奘が宗祖といわれる。」(三省堂『世界史用語事典』)としているものもある。そこで本稿でも「玄奘は法相宗を開いた」としていたが、これは正確とはいえないようなので、上記のように改めた。日本の現在の法相宗は興福寺と薬師寺を両本山としているが、そのいずれにおいても宗派の祖は慈恩大師としている。法相宗の説明によると、玄奘の弟子の窺基(きき)が慈恩寺において師の持ち帰った唯識論の理論書『成唯識論』の翻訳につとめ、その理論を極めることによって「慈恩大師」の号を贈られ、「法相宗」を大成して宗派の始祖となった、としている。それに従えば、玄奘は法相宗の始祖または開祖ではないことになる。参考書によっては「鼻祖」としている。ただ慈恩大師の師が玄奘であるので、高校世界史の理解では「玄奘は法相宗を開いた」と言って誤りとはされないであろう。「玄奘(の弟子の慈恩大師)が法相宗を開いた」とすべきところをカッコを省いて単純化してしまった、ということか。
インド仏教と日本仏教を繋いだ玄奘
なお法相宗の基本である唯識論とは(これこそ高校世界史の範囲を逸脱してしまうが)、大乘仏教の重要な理論の一つで、単純化すると「一切の存在はただ(唯)、心のはたらき(識)がつくりだしたものにすぎず、真実にあるものではない」という認識をもとに、あらゆる識の根底にある阿頼耶(アーラヤ)識の根源をさぐり、不純な識を取り除くこと目指す修行(ヨーガの冥想)を行う、という思想である。3~4世紀にインドのアサンガ(無著)、ヴァスバンドゥ(世親)らによって理論化された教えを玄奘が中国に伝え、その弟子慈恩大師が法相宗として体系化し、日本では飛鳥時代の道昭(玄奘に直接教えを受けている)や奈良時代の義淵・玄昉によってもたらされ、南都六宗(他に華厳宗、成実宗、三論宗、倶舎宗、律宗)の一つとなり、薬師寺と興福寺を本山としている。薬師寺では中国から伝えられた玄奘の遺骨の一部を分骨として1981年に新たに「玄奘三藏院伽藍」を建造した。その玄奘塔の正面には「不東」とある。これは、玄奘が長安を出てインドに向かう際に、仏典を得るまでは決して東に帰らない、という決意を示した言葉だという。 → 奈良薬師寺・玄奘三藏院伽藍