シャイレンドラ朝
8~9世紀にジャワ島に栄えた港市国家。仏教を保護し、ボロブドゥール寺院建築で知られる。
シャイレーンドラ朝とも表記。インドネシアのジャワ島中部を中心に、大乗仏教を保護し、仏教寺院であるボロブドゥールを建造した。海上貿易に従事する港市国家として栄え、一時はベトナム、カンボジアにも進出し、隣接するスマトラ島のシュリーヴィジャヤとも連合したことがあったらしい。また同じ8~9世紀のジャワ島中部にマタラム王国(古マタラム王国)というヒンドゥー教を信奉する国があり、プランバナンという石像のヒンドゥー寺院を築造している。しかし、文献資料が少なく、シュリーヴィジャヤ、シャイレーンドラ、マタラムの関係はまだわからないことが多い。
シャイレーンドラ朝のインドシナ進出
一説によるとシャイレーンドラ王国はシュリーヴィジャヤ王国と婚姻関係を結び、その王子が一時パレンバンを支配したという。またベトナムの史料によると、767年にジャワ島の賊が北部ベトナムに侵入したこと、774年には同じくジャワ島の賊が中部ベトナムのチャム人の国チャンパーを侵略したという記録がある。またアラビア語の史料には、おなじころザーバジ(ジャワと推定される)の王がクメールの首都を攻撃しクメール王を殺害、その首を本国に持ち帰ったという話がある。後のアンコール王国のジャヤヴァルマン2世は、この時捕虜となったが、やがて釈放されたか、脱走したか、カンボジアに戻り、アンコール王国を再建したという。<生田滋『東南アジアの伝統と発展』世界の歴史13 中央公論新社 1998 p.163>教科書での扱いの違い
シャイレーンドラ朝に対しては、2013年山川出版社の詳説世界史では、「シャイレンドラ朝」としてジャワ島中部でボロブドゥール寺院を建造した仏教国としてしか扱われていないが、2013年版の実教出版の教科書世界史Bでは、「8世紀後半になると、シャイレーンドラ朝がシュリーヴィジャヤに君臨し、マレー半島も支配した。さらにカンボジアに宗主権をもち、チャンパーに侵攻し、安南都護府を陥落させるほどの大発展を見せた。」と大きく扱っており、その発展を示す地図さえ掲げている。さらに続く本文で、「ジャワ島中部では、8世紀後半に大乗仏教徒のシャイレーンドラ朝が優勢になり、ボロブドゥール寺院を造営したが、9世紀半ばにヒンドゥー教の古マタラムによってジャワ島から追われ、マラッカ海峡に勢力を保つこととなった。」とある。それだけでなく、注では「シャイレーンドラは、サンスクリット語で「山の王」を意味する。王家の姓ではなく、王家が王朝名として用いた一種の美称である。」とまで詳しく解説している。また「東南アジアの王権」というコラムもあり、編者の中に相当シャイレーンドラびいきの人がいるらしい。<いずれもp.65>