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シュリーヴィジャヤ王国/室利仏逝/三仏斉

7~14世紀、スマトラ島とマレー半島に栄えた港市国家。唐僧義浄が滞在し、大乗仏教が盛んだったことを伝えている。宋王朝には三仏斉が盛んに朝貢している。

シュリーヴィジャヤ地図

シュリーヴィジャヤ 9世紀頃

スリウィジャヤとも表記する、東南アジアの諸島部(島嶼部)スマトラ島東南部からマレー半島にかけて、7世紀頃から繁栄したマレー人の王国。扶南に代わって東南アジアの貿易の中心として繁栄した港市国家であった。都はスマトラ島のパレンバン。マラッカ海峡を挟んだマレー半島とスマトラ島、さらに最盛期の7世紀にはジャワ島やタイなどにも勢力が及んだが、自国領には主たる産物はなく、中継貿易を行っていた。ただし、近代以降のような領域国家ではなく、パレンバンの宗主権を認めたマラッカ海峡の港市国家の結合した政体だったと思われる。
 シュリーヴィジャヤは中国の史料には、唐代には義浄の『南海寄帰内法伝』には室利仏逝として書かれ、他の史料では「尸利仏誓」または「仏誓国」といわれていた。唐から宋にかけて、定期的に中国に使節を送り、朝貢していたことが判っている。宋代の中国史料には三仏斉から朝貢が行われており、これをシュリーヴィジャ(室利仏逝)の後継国家と見るのが一般的であったが、この段階ではパレンバンの宗主権は衰え、港市国家間の結合も緩くなっていたらしく、シュリーヴィジャヤと同一視することは出来ない。

唐僧義浄の来訪

 671年に唐の僧侶義浄がインドに赴く途中、シュリーヴィジャヤに滞在したことが知られている。彼の著作『南海寄帰内法伝』によると、この「室利仏逝国」には千人もの僧侶がいる大乗仏教の盛んな国であったという。
 義浄は671年に広州からペルシア船に便乗してインドに向かい、20日たらずでシュリヴィジャヤに到着した。ここに6ヶ月滞在し、サンスクリット語の文字とその発音を学び、国王の好意によって近くの小国を訪ねた後、翌672年12月にインドに向かい、ナーランダー僧院などで13年間勉学した。685年にサンスクリットの仏典多数を携えてパレンバンに戻った。義浄はその地で『南海寄帰内法伝』、『大唐西域求法高僧伝』などを著し、694年にシュリヴィジャヤを離れ、広州に向かって帰国の途についた。彼は『根本説一切有部百一羯磨』のなかで、
(引用)この仏逝(シュリーヴィジャヤ)の城下には僧侶が千余人おり、学問に励み、托鉢を熱心に行っている。かれらが勉学している書物は中国と異ならない。沙門の儀軌もまったく違いがない。唐の僧でインドに赴いて勉強しようと思う者は、ここに一、二年滞在して、その法式を学んでからインドに向かうのがよい」と述べている。<生田滋『東南アジアの伝統と発展』世界の歴史13 中央公論新社 1998 p.141>

シュリーヴィジャヤのその後

 7世紀に東隣のジャワ島に起こった同じ仏教国のシャイレンドラ朝とは関係が深く、連合したこともあった。一時はシャイレンドラ朝の王子にパレンバンを支配されたらしいが、文献が少なくよくわかっていない。
 シュリーヴィジャヤのその後について、10世紀以降の中国の歴史書に現れる、宋や明などに朝貢している三仏斉という国を、その後身国家であるとみる説が有力であったが、現在では両者は直接関係がなく、シュリーヴィジャヤの勢力は衰えて地方政権となり、マラッカ海峡海域には多くの港市国家が交代しながらそれぞれ中国の王朝に朝貢し、それらがみな三仏斉として中国史料に現れたのではないか、と考えられている(下の三仏斉の項を参照)。
 シュリーヴィジャヤがかつて繁栄したマラッカ海峡海域には三仏斉の他、南インドのタミル人国家チョーラ朝や、ジャワ島東部のマジャパヒト王国なども侵出しており、13世紀からはイスラーム教が波及し、15世紀にイスラーム教国のマラッカ王国がかつてのシュリーヴィジャヤのあった一端を支配することとなる。

三仏斉

10~14世紀に、マラッカ海峡の海域で活動した国々の総称。シュリーヴィジャヤの後身も含む。中国史料に宋や明に朝貢し、いずれも三仏斉さんぶっせいとしてでてくる。ジャワ島のクディリ朝、南インドのチョーラ朝などと競いながら海域の交易を続けた。

 シュリーヴィジャヤ王国と三仏斉の関係については、従来のように単純に継続しているとは説明されないようになっている。いくつかの概説書の説明を見てみよう。

中国資料に見える三仏斉

 960年に宋(北宋)王朝が成立すると、ただちに三仏斉国の入貢の記事があらわれてくる。これはかつては唐代に朝貢を続けていたシュリーヴィジャヤ王国(室利仏逝国)の後身と考えられていた。三仏斉とは、アラブ人がシュリーヴィジャヤを含む東南アジア諸島部の国々を総称して用いていたザバージという地名か、シュリーヴィジャヤのアラビア語形であるスリブザのいずれかを音訳したものとされたからである。宋代にはアラビア商人も入貢し、大食(タージー)と云われていた。さらにシュリーヴィジャヤのその後については次のように説明されていた。
 シュリーヴィジャヤは1025年頃まで存続し、南インドのチョーラ朝の侵攻を受けて略奪されたため衰え、しばらく宋への朝貢も途絶えたが、1079年以降、三仏斉詹畢(せんひつ)国がたびたび朝貢している。これは、パレンバンの北にあるジャンビの音を写したものであり、シュリヴィジャヤ王国の支配下にあったジャンビ王国が自立したものと思われる。13世紀の初めの中国史料『諸番誌』によると、三仏斉国は15の州を統括しているが、その範囲はジャワのスンダ地方からスマトラ北部まで含まれており、その中心はパレンバンからジャンビに移ったらしい。ジャンビは周囲数十里の煉瓦を積んだ城壁に囲まれていたと云い、遺跡も確認されている。三仏斉の貿易は、自国の海産物(玳瑁たいまいなど)と香木などと、モルッカ諸島からの丁字、肉ずくなどの香料、アラビアからの乳香や香水、薬種、宝石など、中国の金銀、磁器、絹織物などさまざまな品目があげられている。<生田滋『東南アジアの伝統と発展』世界の歴史13 中央公論新社 1998 p.220-225>

三仏斉の最近の見方

 最近刊行された古田元夫氏の『東南アジア史10講』では、この見方の変化について、次の説明がされている。
(引用)マラッカ海峡周辺では、10世紀以降、中国資料でいう三仏斉がさかんに中国に朝貢している。この三仏斉は、7世紀に成立したシュリーヴィジャヤがそのまま14世紀後半まで存続した大交易帝国で、その都はスマトラ島にあり、11世紀後半まではパレンバン、それ以降はシャンビであったと考えられてきた。しかし、スマトラ島には文献資料が描くような大国にふさわしい遺跡が存在しないことから、近年では三仏斉は、シュリーヴィジャヤの後身国家を含む、マラッカ海峡に存在した諸小国の総称であったとみなされるようになっている。<古田元夫『東南アジア史10講』2021 岩波新書 p.32>

その後の三仏斉

 古田氏は続けてその後の三仏斉について、次のように述べている(要約)。三仏斉はマレー半島の中部以南、スマトラ島の北端からマラッカ海峡に沿った地域、西部ジャワ、および西ボルネオで、西アジアや南アジア、ジャワと中国()との間の交易ルートを支配し、東南アジア産の乳香にゅうこうなどの香料を宋代の中国に朝貢していた。10世紀末にはジャワ島のクディリ朝が東西交易に積極的に関わるようになり、三仏斉もその攻撃を受けたが、一方で三仏斉は中国及び南インドのチョーラ朝との関係を強化した。
 1025年にはそのチョーラ朝が遠征軍を派遣してマレー半島北部からマラッカ海峡の両岸にかけてを制圧した。マレー半島に置かれたチョーラ朝の拠点クダからは中国に朝貢使節が送られており中国資料には「三仏斉注輦国」(三仏斉チョーラ国)とでてくる。しかしチョーラ朝の海域支配は1070年頃から衰え、その後のマラッカ海峡海域は多くの勢力が競う状況となった。その後もこの海域にはいくつかの異なる勢力が現れ、かわるがわる中国に朝貢したが、中国資料ではそれらをすべて三仏斉としている。その後、ジャワ島のマジャパヒト王国が有力となり、中国資料での三仏斉の名は、1377年の民への朝貢を最後に見られなくなる。<古田元夫『上掲書』p.32-33>

教科書での説明

 現在の世界史探求の教科書では「三仏斉とは中国語史料での表記であり、アラブ人はザーバジュと呼んだ。かつてシュリーヴィジャヤが影響力をもっていたマラッカ海峡地域の港市国家群の総称と考えられている。」<『詳説世界史・世界史探求』2022 山川出版社 p.62>となっており、マラッカ海峡をはさむスマトラ島とマレー半島を囲む楕円の地域と図示されている。ただしここではジャワ島は含まれていない。
 以上、三仏斉の説明にはまだまだ矛盾があり、はっきりしていないところも多いようだ。高校世界史ではこだわる必要はないが、シュリーヴィジャヤと三仏斉は別にした方が良いこと、いずれにせよ東南アジア海域ではイスラーム以前にも豊かな交易世界があり、インドや中国との関係もあったことは理解しておこう。<2024/10/9記>