港市国家
南インド、東南アジアの海岸部で交易が行われた港市を中心に、後背地域を支配した国家の形態。インド洋交易圏で発達し、海の道の交易ルート上に多数存在した。内陸の領域国家、近代の主権国家のような領土概念を持たない。15世紀末の大航海時代にポルトガル、スペインなどの勢力が及んでから植民地化が進み、次第に消滅していった。
海岸や河川に面した港市を持ち、内陸の物資を集積し、海上を通じての他の諸地域との交易ルートをおさえることによって形成された国家。近代の主権国家のような領土はなく、複数の港市の連合体を構成している。紀元前後から、特に南インドから東南アジアにおいて、インド人の商業活動が活発になったことによってインド洋交易圏が形成され、海の道での東西交易が盛んになると、そのルート上の要地に商品の集積、積み替え、風待ち、水や食料の補給などの機能を持つ港市が生まれていった。港市は通常、河川の河口に作られ、河川を遡った内陸の物資を交易品として、海上に交易拠点を設け、ネットワークを広げて、国王が交易圏を支配した。このような国家形態は、内陸の国家には見られないものであるので、特に港市国家という概念で説明されている。
「東南アジアは、東アジアと南アジアの文明世界からみると“辺境”であるが、東西の交易が盛んになると、双方の世界の中間点として交易の中継地とされ、“この辺境が二つの世界を結ぶ中心”となる。この中心性をもった中継地点をエンポリウム emporium (商業の中心)という。エンポリウムはさまざまな価値観をもった人々が集まるので、異文化に寛容であるとともに独立心が強い。そのような“政治的独立性をもった海のエンポリウム”を港市国家と呼ぶ。13世紀から18世紀のヴェネツィア、アジアでは15世紀のマラッカ王国、琉球王国などがその代表である。堺や博多などの自治都市も一種の港市国家として理解できる。17世紀の世界の銀価格が統一され、航海技術の発達によって産地と市場が直接結ばれるようになると、港市国家の仲介機能は不必要となり衰退に向かい、18世紀中には姿をけす。しかし、現代のシンガポールにはその伝統が継承されている。」
現在では港市国家の概念は東南アジアにとどまらずに用いられ、入試にも頻出するようになっている。
「海は、陸地と陸地の間にある距離を作り、人や社会の交流を妨げる障害であったが、一方、遠隔地間の人の交流や文化接触を促す豊かな交通空間でもあった。(中略)東南アジア地域では、インドや中国との海上交易の拠点を中心に成立した( 1 )国家が発展し、1~2世紀ごろには、メコン川下流域のデルタ地帯を支配下に治めた( 2 )が、また2世紀ごろには、インドシナ東南部にチャム人が建国し中国名を( 3 )とする王国が、( 1 )国家として栄えた。マラッカ海峡を抜ける交易路が発達した7世紀には、海域島嶼部の国家が力を増し、スマトラ島南部には、( 1 )国家連合体である( 4 )が建てられ、8世紀半ばには、ジャワ島中部に大乗仏教の巨大石造遺跡( 5 )で知られる王朝( 6 )朝が生まれた。(下略)
港市国家の具体例
港市の中で国家に成長したのが、1世紀ごろの南インドのサータヴァーハナ朝やスリランカ(シンハラ王国)、メコン川下流域のシャム湾に面した扶南、インドシナ半島東南岸のチャンパーである。さらに7世紀ごろからマラッカ海峡を抑え、マレー半島、スマトラ島にまたがる港市国家の連合国家としてシュリーヴィジャヤ王国が栄え(唐の義浄がインド旅行の途中に海路でこの地に来た事で知られる)、10世紀以降は中国に朝貢した三仏斉の港市国家群があった。ジャワ島ではシャイレンドラ朝(ボロブドゥール寺院の建設で知られる)などが興った。またイスラーム教が伝えられ、それを奉じたマラッカ王国、アチェ王国なども港市国家である。なおタイのアユタヤ朝なども港市国家であるが、より広範な内陸部の農村地帯も支配するようになった。これらの港市国家は、15世紀末にポルトガルやスペインなどヨーロッパ勢力が及ぶことによって、より広範囲な世界貿易に組み込まれることによって消滅し、植民地支配を受けることとなる。教科書に見る港市国家
「港市国家」なる概念は1990年代末に高校教科書に取り上げられるようになった新しい概念である。山川の『詳説世界史』でも2003年の新課程版から登場した。また各社の教科書でも扱いにかなりの開きが見られる。たとえば同じ山川の教科書でも『高校世界史B』では使われていないし、実教出版でも扱われていないか、カッコ付きで出てくる程度のものもあるし、東京書籍版のように3箇所も出てきて、しかも1ページを使って「港市国家とは何か」を詳しく紹介しているものもある。また東京書籍版ではその概念を拡大して、南インド・東南アジアだけではなく、地中海に面したフェニキア人の都市シドンとティルスも港市国家であると説明している。なお、最近評判の山川出版社の一般向け『もういちど読む山川世界史』ではこの用語は取り上げられていない。このように、「港市国家」は教科書の扱いに違いがあるためか、山川世界史B用語集ではなんと3回も出てくる。受験用語としてはすでに定着しているということであろう。出題例は下にあげた。「港市国家」論の流行
この概念は、和田久徳氏のマラッカ王国研究で初めて用いられたものであるが、その後、東南アジア史のマレーシア人研究者が使っていた port-polity なる用語の訳語として用いられるようになり、学会で共通概念となったらしい。初めは東南アジア史の固有の概念であったが、次第に適用範囲が広がり、現在では東京書籍の教科書にあるように、地中海世界にもあてはめられている。その背景には、1990年代になってフランスの歴史家フェルナン=ブローデルの『地中海』全5冊が刊行され、またその影響を受けたウォーラーステインの『近代世界システム』論(簡単に言えば中心と周縁という概念で世界史を捉える)が大きな影響力を持つようになったことがあろう。それ以来、盛んに「ネットワーク」という概念が世界史の説明でも使われるようになった。『詳説世界史』でも旧版では第8章が「東西文化の交流」という章であったが、新課程版で第7章に「諸地域世界の交流」が置かれ、その1節が「陸と海のネットワーク」とされた。東京書籍版教科書の「港市国家」論
各社教科書の中の「港市国家」の取り上げ方で異彩を放つのが東京書籍版であり、1ページを使って解説している。多くの受験生は目に触れることはないと思われるので、簡単に要約して紹介しておこう。「東南アジアは、東アジアと南アジアの文明世界からみると“辺境”であるが、東西の交易が盛んになると、双方の世界の中間点として交易の中継地とされ、“この辺境が二つの世界を結ぶ中心”となる。この中心性をもった中継地点をエンポリウム emporium (商業の中心)という。エンポリウムはさまざまな価値観をもった人々が集まるので、異文化に寛容であるとともに独立心が強い。そのような“政治的独立性をもった海のエンポリウム”を港市国家と呼ぶ。13世紀から18世紀のヴェネツィア、アジアでは15世紀のマラッカ王国、琉球王国などがその代表である。堺や博多などの自治都市も一種の港市国家として理解できる。17世紀の世界の銀価格が統一され、航海技術の発達によって産地と市場が直接結ばれるようになると、港市国家の仲介機能は不必要となり衰退に向かい、18世紀中には姿をけす。しかし、現代のシンガポールにはその伝統が継承されている。」
現在では港市国家の概念は東南アジアにとどまらずに用いられ、入試にも頻出するようになっている。
出題
2009 立教大学(観光・経営他) 第2問 次の空欄に当てはまる語句を記せ。(部分、一部改)「海は、陸地と陸地の間にある距離を作り、人や社会の交流を妨げる障害であったが、一方、遠隔地間の人の交流や文化接触を促す豊かな交通空間でもあった。(中略)東南アジア地域では、インドや中国との海上交易の拠点を中心に成立した( 1 )国家が発展し、1~2世紀ごろには、メコン川下流域のデルタ地帯を支配下に治めた( 2 )が、また2世紀ごろには、インドシナ東南部にチャム人が建国し中国名を( 3 )とする王国が、( 1 )国家として栄えた。マラッカ海峡を抜ける交易路が発達した7世紀には、海域島嶼部の国家が力を増し、スマトラ島南部には、( 1 )国家連合体である( 4 )が建てられ、8世紀半ばには、ジャワ島中部に大乗仏教の巨大石造遺跡( 5 )で知られる王朝( 6 )朝が生まれた。(下略)
解答
1.港市 2.扶南 3.林邑 4.シュリーヴィジャヤ 5.ボロブドゥール 6.シャイレンドラ