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木簡・竹簡

古代中国で、紙が使用される前の記録媒体。木片や竹を短冊状にして文字を書いた。

漢代木簡

内蒙古居延出土の漢代木簡
(中国中学校歴史教科書)

 が発明される以前の中国で文字を記録するのに使われた、木片と竹片。春秋戦国時代に始まった。それ以前の殷周時代には、甲骨に刻まれたり(甲骨文字)、青銅器に彫られたり(金文)していた。木簡・竹簡は木または竹を薄く短冊状にしてひもでつなげ、文字を書いた。それをつなげた形から作られた象形文字が「冊」である。また保管は巻物にしていたので、書物を数える単位を「巻」という。現在でも戦国時代の遺跡から発見されることもある。また漢代の敦煌遺跡から大量の木簡が見つかっている。木簡・竹簡の他に、絹布(帛、はく)が文字や絵を描くに用いられたが、次第に紙が用いられるようになり後漢の蔡倫製紙法を改良し、広く用いられるようになって、木簡・竹簡は姿を消した。

参考 「汗青」という語の意味

 竹簡は、青竹を火に炙って油分を抜いたものに文字を書いた。青竹の汗を抜くので「汗青」という言葉が生まれ、それが記録や歴史を記す意味をもつようになった。そこから、「汗青」は歴史や記録を意味する語となった。

参考 新たな出土資料の増加

 1970年代以降、中国で新たな出土資料が急増している。それには、甲骨文や青銅器だけでなく、木簡・竹簡も大量に含まれている。また最近では、「木簡・竹簡」に加えて「竹牘・木牘」が多く出土している。「簡」は三〇字程度の文字が記載されているのに対して、「牘」(とく)は同じ木片や竹片でも簡よりも幅が広く、百字程度の文字が記されているものをいい、これらの「紙の発明以前の書写材料として用いられた木片・竹片」を併せて簡牘(かんとく)といっている。また、木片・竹片ではなく白い絹布である「帛(はく)」に書かれた文字資料もある。これらの簡牘・帛に加え、石や磚(せん、煉瓦)に絵画が描かれた画像石・画像磚も出土資料に含まれている。
 出土資料で最も多い、簡牘が大量に見つかったケースの代表的な事例には次のようなものがある。
  • 1900年 甲骨文発見の翌年、敦煌・莫高窟の道士王円籙が崩れ落ちた壁の中から経典や文献を発見、1907年以降、イギリスのスタインやフランスのペリオがそれらを持ち帰り、世界に敦煌文書として知られた。
  • 1927年 スウェーデンのヘディンは中国との合同探検隊を組織、甘粛省酒泉郡の遺跡から1万枚にのぼる漢~唐代の木簡を発掘した(居延漢簡)。
  • 1972年 長沙・馬王堆の漢墓発掘、山東・銀雀山の漢墓発見。馬王堆からは帛書『老子』、銀雀山からは『孫子』が出土。馬王堆からは埋葬者の遺体、副葬の豪華な衣類など、銀雀山からは武器や車、暦が出土。
  • 1975年 湖北省雲夢県睡虎地の秦墓から大量の竹簡出土。秦代の法律条文、犯罪捜査・裁判の記録であることが判明。

 文化大革命後の中国が、急速に経済発展する過程で、道路・鉄道・建造物の建設ラッシュが続き、建設現場から厖大な出土資料が報告されている。これは、『史記』以降の正史や文献資料では判らなかった社会の実像を伝えており、史実や定説とされていたことの見直しが図られている。とくに従来、伝説とされていた夏王朝や、さらにその前の三皇五帝の実在を主張する傾向が強くなっている。<中国出土資料学会編『地下からの贈り物』2014 東方書店 p.70-77 江村治樹執筆部分より>