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製紙法

現在の製紙法は紀元前の中国に始まり、後漢の蔡倫によって改良され、唐代に普及した。8世紀にイスラーム世界に伝えられ、さらにヨーロッパに広がった。

 は中国の後漢の宦官蔡倫105年に発明改良したと言われている(後漢書の記述による)。最近では紀元前の前漢時代の遺跡からも紙が発見されており、蔡倫の発明説は否定されているが、蔡倫が改良を加えた結果、竹簡や木簡に代わって用いられるようになった。しかし紙の使用が一般化したのは、唐の段階である。唐の時代には、紙の普及とともに、主として仏教経典を配布するためにさかんに木版印刷(一枚の板に漢字の文章を陽刻して巻物や冊子にする)が行われるようになった。

タラス河畔の戦い

 唐は都の長安を中心に国際的な文化が繁栄し、また西域を通じて文化の交流が盛んに子なわれていたが、中国の製紙法が西方に伝えられる直接的なきっかけとなったのは、751年の唐とアッバース朝イスラーム帝国が直接戦った、タラス河畔の戦いの時であった。このとき、アッバース朝軍に捉えられた唐軍の捕虜の中に、紙漉工などが含まれており、彼らはサマルカンドに連れて行かれ、まもなくできた製紙工場での中心的な技術者となり、麻を原料にした紙の生産が始まった。 → 製紙法の伝播

製紙法の広がり

 これ以後、製紙法は次第に西方イスラーム世界にひろがった。ダマスクス、エジプトを経てアフリカ北岸沿いに西に伝わり、12世紀にイスラームの支配下にあったスペインに伝わり、バレンシア地方に製紙工場が建てられた。ついで13世紀にイタリアで製紙工場がつくられ、14世紀にはヨーロッパ全域で紙の製造が始まった。
 エジプトではパピルス(Paperの語源)の茎を使った紙が使われていたが扱いや保存に適さず、ローマ時代からは羊の皮をなめした羊皮紙が次第に使われるようになった。パピルス紙は中世ヨーロッパの教皇庁などでは依然として使われていたが、羊皮紙は価格が高く一般の庶民に書物が普及することはなかった。やがてイスラーム圏を経て、中国起源の製紙法が伝わり、印刷術が知られるようになった14世紀には、書物が普及し、知的水準を一挙に高めた。<以上 藪内清『中国の科学文明』岩波新書1970> → 羅針盤 火薬 活字印刷

中国の製紙法

 明末の宋応星が著した『天工開物』には次のように述べている。
(引用)物象の精華や天地の微妙さは、古えから今に伝えられ、中華から外国に広められている。後に生を享(う)けたものはそれを目でみ、心で識るが、いったいそれらを何に書きしるすであろうか。君主の意が民に通じ、師が弟子に教えを伝えるのに、くどくどした言葉に頼っていては、いったいどれほどの期待ができようか。それに反して一片の沙汰書、半冊の書物でも、それを手にすれば事は達せられ趣旨は通じて、政令は風のようにあまねく太陽の光にとける氷のように容易に行われる。ここに天地の間に紙というものの存在する意味があり、聖人も頑愚な者もこれの恩恵を受けている。その本身は竹骨と木皮であり、そのもとの青さを殺(そ)ぐと紙としての白さが生まれるのである。諸家百般の書物は、そのもとはこの紙によるのである。すぐれた紙は書物に使われ、粗末なものは風をさえぎり物を守るのに役立っている。このことは上古に始まっているのに、漢、晋の人に創始者としての名を独占させておくのは、何と浅はかなことであろう。宋応星/薮内清訳『天工開物』東洋文庫 p.245 平凡社
 最後に言っているのは、紙の発明を蔡倫に帰していることを否定し、それより以前からあったという主張である。宋応星は紙は竹骨と木皮から作ると言っており、特に切った竹を煮て紙を作る方法を詳しく述べている。また木皮とは楮(こうぞ)の皮のことであるが、薮内清氏の訳注によると、楮をコウゾにあてるのは誤りで、コウゾは中国になく、紙の材料となるのは和名ではカジノキとよぶものだという。『同上書』p.246


製紙法の伝播

中国で発明された紙を作る技術は751年のタラス河畔の戦いでイスラーム世界に伝えられ、さらに12世紀ごろヨーロッパに広がった。ルネサンス時代の活版印刷普及と共に量産が始まった。

イスラーム世界への伝播

 イスラーム世界でもが使用される前はパピルス紙または羊皮紙だった。751年タラス河畔の戦いで数名の中国人捕虜が、亜麻、リンネル、または大麻のきれはしから紙を製造する技術を初めて伝えられ、その製造が始まったのはサマルカンドにおいてであった。紙を意味する古いアラビア語であるカーガドは、たぶん、ペルシア語を経由した中国語が語源である。
 製紙業は、まもなくサマルカンドからイラクに伝わり、794年にホラーサーンの知事だったバルマク家のアル=ファドル=イブン=ヤヒヤの提唱で、最初の製紙工場がバグダードに建設された。ハールーン=アッラシードの宰相(ヴァジール)だった彼の弟のジャアファルは、政府省庁で使う羊皮紙を紙に代えた。他のイスラーム都市でもサマルカンド方式で製紙工場が作られたが、しばらくはサマルカンドの製品がもっとも上質であると考えられていた。しかし、11世紀には、もっと上質の紙がシリアの各都市で製造されるようになった。
 9世紀の終わり、製紙業は西アジアからエジプトのデルタ地帯に伝わった。エジプトでは、いくつかの都市が古くからカラーティーヌという名でパピルスを用紙としてギリシア語圏諸国に輸出していた。10世紀の終わりまでには、イスラム世界全体で、紙がパピルスと羊皮紙を完全に駆逐するのに成功していた。<ヒッティ/岩永博訳『アラブの歴史』下 講談社学術文庫 p.135-136>

ヨーロッパへの製紙業の伝来

 地中海世界では900年頃にはカイロ、1100年頃には現在のモロッコのフェスに製紙工場が作られている。11世紀終わりから12世紀はじめに、アラビアの紙がシチリアに輸入され、その影響で、1150年にはスペインのハティバに製紙工場が現れ、ヨーロッパでも羊皮紙から紙への時代への変化が明確となった。その背景には十字軍運動レコンキスタによってイスラーム圏との接触が増大したことがある。1276年、イタリアで最初の製紙場がファブリアノに作られ、ボローニャ、パドヴァが続いた。フランスでは1189年にエローに製紙工場が現れたという説もあるが、確かな最初の製紙場は1348年のトロワである。1390年にはドイツのニュルンベルクにも作られた。15~16世紀にはヨーロッパのほとんどの国に製紙工場ができ、中でもイタリアが盛んだった。<エリク・ド・グロリエ/大塚幸男訳『書物の歴史』初刊1954 文庫クセジュ1992 p.27 などによる>
 ヨーロッパでは、宗教改革で大量のパンフレットが作成されたこと、ルネサンスでの文芸の大衆化などによって紙の需要が急増し、活版印刷術と結びついて出版は一大産業へと発展していった。それに伴い製糸業も手工業段階を終え、巻紙型の製紙機械の発明、原料での木材パルプの利用など、大量生産が可能になっていった。<平田寬編著『歴史を動かした発明―小さな技術史事典』1983 岩波ジュニア新書 p.14-17 などによる>