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大月氏/大月氏国

中央アジアのイラン系遊牧民で匈奴と争った。甘粛からパミール高原西側に追われ、大月氏国をつくった。前129年ごろ、漢の張騫が来訪した。

 イラン系の遊牧氏族であるとされる月氏(民族名)は、始め現在の中国の甘粛省付近(黄河上流域)を拠点としていたが、前3世紀の末に冒頓単于率いる匈奴に攻撃されて敗れたたため、主力は西方に逃れ、まず天山山脈の北のイリ地方に移動した。この移動した月氏を大月氏と言った。

大月氏国

 大月氏はさらに北方から烏孫に攻撃されてイリ地方を追われ、パミール高原を超えてアム川上流のソグディアナからバクトリアに入った。その地には、ヘレニズム諸国の一つバクトリア王国を滅ぼしたトハラ(トカラ)国があった。トハラが張騫の伝えた「大夏」と考えられているが、大月氏はその大夏を滅ぼして、大月氏国を建設した。

漢の張騫の来訪

 前139年ごろ、武帝は、匈奴を挟撃するための同盟結成を働きかけるため、張騫を大月氏に派遣した。張騫は苦難の末、前129年ごろ大月氏国に到着したが、大月氏国はすでにこの豊かな地で定住生活を営んでおり、再び匈奴と戦って甘粛に戻る意図はなかったため、同盟は成立せず、張騫は帰国した。その後、漢の武帝は将軍衛青や霍去病に指揮させ、単独で匈奴作戦を推進することとなる。大月氏が匈奴に追われたのは50年前であり、移住先のこの地で、すでに商業都市サマルカンドなどを支配し、豊かな土地で定住するようになっていたので、再び匈奴と事を構える気はなかったかららしい。

クシャーナ国へ

 大月氏国はアム川上流のオアシス都市を、土着の五人の有力者たち(翕侯、ヤブグ)に支配させていたが、やがてその五翕侯の一人、クシャーン・ヤブグが月氏の支配を覆して、クシャーナ朝を建設、北インドに進出する。<間野英二『中央アジアの歴史』新書東洋史 1977 講談社新書 p.22,77-78>  なお、中国の資料では、このクシャーナ朝も大月氏国と呼んでいる。
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