印刷 | 通常画面に戻る |

トハラ/大夏

中央アジアの現在のアフガニスタン北部地域、および住民をいう。パミールからイラン、インドに通じる東西交易路にあたり、バクトリア王国や大月氏国もこの地に進出した。古代中国史料で現れる大夏はこの地と人々を指すとされる。

 トハラは中央アジアの地名で現在のアフガニスタン北部。トカラとも表記。アムダリア川上流一帯のヒンドゥークシュ山脈北側にトハラ人が生活し、トハリスタンともいい、中心都市は古くはバルフ(バクトラ)、後にクンドゥーズに移った。この地の土着民のトハラ人はスキタイ系の遊牧民でトハロイとも言われた人々と考えられるが詳細は不明である。この地は東西貿易で重要であったので、前3世紀にはアレクサンドロス大王の東方遠征によって進出したギリシア人の入植が行われ、アレクサンドロスの大帝国に組み込まれた後、ヘレニズム諸国の一つであるセレウコス朝の支配を受け、前255年頃、それから分離したバクトリア王国(グレコ=バクトリア王国)が建国された。バクトリア王国の支配を受けてたトハラは、徐々に自立するようになり前139年に国を作ってバクトリア王国を滅ぼした。しかし、まもなくこの地に東方から匈奴に追われて移ってきた大月氏が進出し、それによってトハラ人の国は征服された。

中国史料の「大夏」

 中国側の古代史料である司馬遷の『史記』で「大夏(たいか)」として現れるのがトハラであると考えられている。司馬遷の史記大宛伝によれば、前129年頃、大月氏国に派遣された張騫は、大夏が大月氏に征服されたことを伝えている。この大夏についてはどの地域、民族をさすのか諸説あったが、現在はトハラ Tokhara の音を漢字で表したもので、バクトリア王国を滅ぼしたトハラとされている。

参考 「大夏」はトハラかバクトリアか

 なお、かつては「大夏」は「バクトリア」のことであるとされ、あわせて「トハラ」は「大月氏」のことである、とされていた。しかし、現在ではそれは誤りであり、大夏とは「トハラ」のことであるというのが正しいとされている。1980年版の『新編東洋史辞典』(京大東洋史辞典)では「中国史料にみえる大夏は従来バクトリアに比定されたが、近来大夏はトハラとされ、大月氏即トハラ説も疑問視されている。」とし、バクトリアにかわった大夏=トハラはまもなく大月氏に臣従した、と説明している。山川出版社の世界史用語集も1983年版の「大夏(トハラ)」の項に「かつて大夏はバクトリアとされてきたが、現在ではトハラとする説が有力である。前2Cにバクトリア王国を滅ぼし、前1Cに大月氏に支配された。」となっており、最新刊でも大夏=トハラ説が継承されている。山川、実教出版、三省堂の学習用世界辞典はいずれも大夏はトハラのこととなっている。ただ、『角川世界史辞典』2001年初刊はバクトリアの項で「中国の史書では大夏」とある。この辞書には大夏もトハラも独立した項はない。また、wikipedia の「大夏」の項は「大夏はバクトリア」を指すと書いている。
 これはどういうことかというと、「バクトリア」を地域名称として使うのか、「バクトリア王国」という国家の意味で使うのか、の違いと思われる。『史記』でいう大夏はやはりトハラの漢訳で「トハラ(人、国家)」を意味し、国家としてのバクトリア王国のことではない。ただし、トハラという国はバクトリア王国を滅ぼしてバクトリア地方も支配したので、その意味では大夏=バクトリア地方とするのは誤りとは言えない。角川世界史辞典、wikipedia の説明は地域的名称としてのバクトリアを指しているという点では正しい。
 つまり、厳密に言えば「大夏」とは、前139年にバクトリア王国を滅ぼし、バクトリア地方を支配した国家(人々)である、となろう。したがって、大夏は少なくともバクトリア王国のことではないことはあきらかであるが、地域としてのバクトリアをさしている、とするのは誤りとは言えきれない。ということになろう。最近では、混乱を避け、ギリシア人がバクトリアに建てた国を「グレコ=バクトリア王国」ということが多くなっており、より広い地域概念であるバクトリアと区別している。 → バクトリア王国の項を参照。
注意 もう一つの大夏 なお、ややこしくなるが中国史では「大夏」という国が他でも出てくる。それは、11世紀に中国西部に出現したタングート族が建てた西夏のことで、この王朝は宋からは西夏と云われたが、自らは大夏と称していた。最近ではそれを尊重して日本の世界史教科書でもこの王朝を「大夏」と言うようになっている。また最近では中国で殷に先立って存在していたとされる王朝、五胡十六国の一つの夏などもある。高校の世界史教科書で「大夏」と出てきたら、従来の西夏のことであると言ってよいだろう。

大月氏国とクシャーナ朝

 トハラを滅ぼしてバクトリア(地域)を支配した大月氏国は、5つの有力部族からなっていたが、そのうちの一つから台頭したクシャーナ朝が後1世紀中頃にバクトリアに支配権を成立させ、トハラ人もその支配を受けた。クシャーナ朝はさらに北西インドに進出し、仏教を受容してガンダーラなどに高度な仏教文化をつくりあげた。7世紀には唐の玄奘がガンダーラに入る前にトハラに入っており、その旅行記である『大唐西域記』には都貨邏国として記されている。
参考 トハラ語 さらにややこしくなる情報をもう一つ、「トハラ語」というのがある。これは20世紀初頭に確認され、現在では消滅してしまった言語で、タリム盆地北辺からトゥルファン盆地にかけてのオアシス地帯で用いられたもので、ギリシア語やラテン語の影響を受けたインド=ヨーロッパ系言語の中で最も東方に位置するものであるという。トハラ語を書写した文字はインドのブラーフミー文字の変形でありインドの影響も強く受けている。しかし、このトハラ語の使用された時代や形成過程はまだよくわかっていないが、バクトリアのトハラ人との関係がないと見られている。いずれにせよ、トハラについてはわかっていることがあまりにも少ないと言うことであるようだ。
印 刷
印刷画面へ