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董仲舒

漢の武帝に五経博士の設置などを提言し、儒学の官学化を実現したとされる儒学者。

 とうちゅうじょ。漢の景帝、武帝時代の儒学者。河北省の出身で、若くして儒家となり、賢良として中央官庁に推挙されて、武帝の諮問に応え、五経博士の設置を提言し、実現させた。これによって、官僚は儒家の経書とされる五経を学ぶことが条件とされ、また五経の解釈は国家が定めるものを正統とされることになった。このことを一般に儒学の官学化という。
 また董仲舒の理念は、官吏採用制度である郷挙里選や、大土地所有を制限すべきであるとして限田策にも生かされている。董仲舒は、孔子が魯国の年代記『春秋』で展開した政治批判を、現在に生かそうとしたものであり、これ以後の儒教と中国政治の密接な関係の基礎を築いたと言える。しかし、この儒教は、董仲舒の思想が「災異説」(下の記事参照)という一種の神秘主義と結びついていたことにもみれるように、先祖崇拝や自然崇拝という伝統的な枠組みを出ることはなかった。後の朱子学などのような論理的、合理的な深さには至っていなかったと言える。 → 儒学・儒教

Episode 董仲舒の勉強熱心

 董仲舒は大変勉強熱心で知られ、若い頃は勉学にうちこみ、三年間も庭に降りたことがなかったという。馬に乗っても書物のことで頭がいっぱいで、牝牡いずれかも気づかなかった。

董仲舒の災異説

(引用)この時代の最高の大儒とされる董仲舒は、春秋公羊学を修めて、その中に災異応報の論理を見出した。それがいわゆるかれの災異説である。『春秋』はいうまでもなく五経のひとつで、孔子が編纂したと伝えられる魯国の史書であり、公羊とはその解説書である伝の名である。かれがこの『公羊伝』の中に発見した災異説とは、地上に事変が発生する場合には、かならずそれ以前に天がなんらかの災異を示してその予兆としてるということである。これは天のもつ神秘性を重視したもので、当時の儒家思想にみられる神秘主義を代表するものである。<西嶋定生『秦漢帝国』講談社学術文庫 p.272>

その後の儒学

 漢代の儒学は、董仲舒によって災異説と結びついて神秘主義的な側面を強めた。しかし、神秘主義は合理的に表現がされなければ、その効力をもつことができない。そこでさらに、当時は一種の自然科学と捉えられていた陰陽五行説と結びついて、讖緯説がつくり出される。讖緯説は漢末から後漢時代に流行して、王莽光武帝の政権交代の論理とされていくこととなる。
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