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郷挙里選

漢王朝の武帝が制定した官吏登用法。地方豪族の子弟が推薦されて中央の官吏となった。後漢王朝でも続き、豪族支配の要因となった。

 きょうきょ、りせん。中国の王朝、前2世紀の後半の武帝時代以降の官吏登用法。武帝以前の官吏は、高官の子弟か富裕な者の子弟から登用されていたが、国家機構が拡大するにつれて人材の登用が必要となり、武帝は郡県の下の郷(きょう)、さらにその下の里(およそ百戸から成る行政の末端単位)から、賢良方正な人物を推薦させた。このような、里から選び、郷から挙げられた人を地方長官から中央に推挙することを郷挙里選、または推薦で官吏を選ぶことを単に「選挙」といった。紀元後1~2世紀の後漢においても、選挙は郷挙里選で行われた。

郷挙里選の実際

 推薦による官吏登用(つまり選挙制度)はどのように行われたか、次のような説明がある。
 漢の選挙制度は中央官である公卿もしくは地方官である郡太守や王国の相が、次のような徳目ごとに人物を推挙した。その徳目とは、賢良、方正、直言、極諫(きょっかん)、秀才(後漢では光武帝の諱を避けて茂材に改めた)、孝廉(こうれん)、有道などで、次第に増えていったが、この徳目の中で最も重視されたのは孝廉であった。
 孝廉の孝とは父母に仕えて孝行であるもの、廉とはその行いが清廉潔白であるものを意味する。郡太守などの地方長官は、その管轄内でこれに相当する人材を発見し、中央に推薦する。推薦されたものはまず郎官となり、次いで中央・地方の官吏に任命される。特に後漢の光武帝は孝廉を重視し、中央の三公(大司徒・大司空・大司馬)以下の高官、各郡国の太守らに推薦枠が与えられた。郡国からの孝廉による推挙数は後漢の和帝の時に、ほぼ人口20万人に一人などと定められ、全国で毎年2百人の孝廉が推挙された。

Episode 親孝行したら官吏になれる?

 孝廉が選挙の徳目として重視されたため、孝と廉が人倫秩序の価値基準となり、儒教の礼教主義が貫かれるようになった。孝廉は「親孝行」か「清廉潔白」ということであるから、中には孝廉に見せかけるため、極端な親孝行ぶりをするものもあらわれた。たとえば「親の墓の側に小屋を建て、ことさらに粗衣粗食して三年の喪に服服して」認められようとするものもいた。あるいは清廉潔白ぶりを認めてもらうため、他人の贈り物をことごとく謝絶し、自分の財産を親族に分け与えて名声を得ようとするものもあらわれた。逆にこのような孝廉の徳目が重視されることに反発し、気骨あるものは孝廉に選ばれてもそれを受けないという気風もうまれたという。<西嶋定生『秦漢帝国』1997 講談社学術文庫 p.477-479>
 現在の大学の推薦制度も、高校の内申点をもらおうと生徒会や部活に励んで教員のウケを良くし、「人物評価」を高くしようという風潮があるようですから、何かうさんくささは一緒ですね。

豪族から貴族へ

 結局、「孝廉」で選挙されるものは有力な豪族の子弟が多く、人材登用よりも、豪族の中央進出の手段とされるようになった。後の三国時代のでは人材登用の方式として郷挙里選を改めて、九品中正の制度を始めた。それは中央から派遣された中正官が、郷里で官吏候補者を九等級の郷品(九品)に分けて中央に報告し、中央でそれぞれにふさわしい官職に就けるというもので、人材本意の選抜をねらうものであったが、かえって地方の有力な豪族の子弟が高い郷品を占めたため中央官僚の地位を独占して門閥貴族化し、豪族から貴族へ転化していった。ついで隋では推薦ではなく筆記試験である科挙が制度化され、門閥貴族にかわる人材登用への道が開かれた。
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