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儒学の官学化

漢の武帝は、儒者の董仲舒の提言を受け、五経博士を置くなどによって儒学を官学とした。儒教の国教化とも言われるが、それが明確になるのは後漢末と考えられる。

 孔子に始まる儒学の教え(儒教)は、孟子によってさらに広範な国家統治理念とされた。それは仁と礼を根幹とした、君主の徳によって国が治められなければならないという徳治主義の政治思想を生み出した。その一方、孔子・孟子の説を発展させた荀子は、君主の徳によるのではなく、法をきびしく遵守することで国家を安泰とすることを説き、法家の思想の源流となった。秦の始皇帝は法家の韓非の影響を受け、さらに法家の李斯を丞相として採用し、法家の思想での統一国家建設を目指し、儒家の思想はむしろ弊害があると考え、焚書坑儒と言われる弾圧を行った。

漢の武帝による儒学の官学化

 秦に代わった漢王朝は、封建制を復活させて郡県制と合わせた郡国制を布くなどによって権力の安定をはかったが、その全盛期となった前2世紀の武帝は、その統治理念として儒学を用いた。特に儒学者の董仲舒が登用され、かれの建言によって、儒学は漢の正式の官学、国教とされた。それに伴い、儒学の正統的な理解の基準として主要経典を五経(易経、書経、詩経、礼記、春秋)として定め、それを教授する五経博士を置いた。これらが儒学の国教化と言われる処置である。

儒学の官学化の意味

 儒学が官学、国教とされたのは、春秋・戦国時代から続く氏族制度の崩壊により、自立してきた家族を皇帝が直接支配する中央集権体制をとる上で、君臣間、長幼、親子などの秩序を協調する儒家の道徳観が適合するものであったからであろう。しかし、漢代には儒家の徳治主義を信奉するのもだけが官吏となったのではなく、法家的な法律の力によって民衆を統治することが大切と考えた官吏たちも多数存在した。司馬遷は『史記』の中で、同時代のそのような官吏を「酷吏」と評し、「酷吏列伝」を書いている。

出題 2010年 東大 第2問

 問(1) a それまで複数の有力な思想の一つに過ぎなかった儒学が、他の思想とは異なる特別な地位を与えられたのは、前漢半ばであった。そのきっかけとなった出来事について2行以内で説明しなさい。

解答

参考 儒教国教化説への疑問

(引用)古来の説では、武帝のときから儒教が国教になったといわれています。国教という言い方はもちろん、ローマ帝国がキリスト教を国教化したという事実にならったものです。しかし漢代の儒教の場合、そのようにみてようかどうか疑問もあります。確かに儒学の経典の五経博士をおいたとか、孝廉の試験を始めたとかいう記事が、武帝時代の記録にみえるのですが、博士という学問の担当者が政府内におかれたのはそれ以前からで、そのなかには儒学の担当者もいたとか、一方五経の官がそろうのはもっと後であろうという説もあります。孝とか廉とかいう徳目によって人を採ることも、文帝のころからおこなわれたといわれます。
 なによりも儒教の教えが知識人・支配層の間に普及したかどうか、儒学にもとづいた政治がおこなわれたかどうかというと、武帝の時代には法家的な政治がおこなわれて、法家を信奉する官吏も多かったと思われます。儒教一尊というわけにはいかなかったことはまちがいありません。
 いわゆる儒教の国教化は、董仲舒の上奏によっておこなわれたともいわれています。たしかに董仲舒は武帝時代の大学者です。かれが上奏をおこなったというのも事実でしょう。ところが今残っている董仲舒の上奏なるものは、いろいろな年次を異にする内容がいっしょくたになっていて、そのまま信用するわけにはいきません。董仲舒が大学者であったために、後からかれの功績を偉大なものにしようとして、この上奏文がまとめられたのでしょう。
 董仲舒の学問の特徴は、儒学と災異説とを結びつけた点です。災異というのは天災地異、天変地異のことで、こういう現象が単なる自然現象にとどまらず、人間世界の出来事を予言するというような考えは、原始社会以来、古い社会にはよくあることです。こういう原始の心性は、漢代まで続いていたのです。<堀敏一『中国通史』2000 講談社学術文庫 p.116>
 では儒教が普及したのはいつかというと、前1世紀の元帝のころだというのが一般的な見方である。儒教が普及すると、その教えの実践者として評判になったのが王莽であり、彼はその評判によって支持を取りつけ、また各地で都合のよい祥瑞が現れるよう工夫して皇帝の地位にまでついてしまう。
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堀敏一
『中国通史』
2000 講談社学術文庫