吐谷渾
4~9世紀、黄河上流青海地方にあったチベット系の国家。中国文明を吸収して交易で栄えたが、唐の攻勢を受け、衰退した。
とよくこん、と訓む。鮮卑の慕容氏出身の吐谷渾という人物が、4世紀ごろに羌と言われていたチベット系民族を従えて、黄河上流の青海地方を支配して成立した国家。始祖の名前がそのまま国名となった。吐谷渾の支配地は寒冷な土地であったので農業はあまり振るわず、周辺諸民族との交易に主として従事した。
隋・唐との交渉
吐谷渾は5~6世紀の南北朝時代の両王朝に朝貢し、中国文化を摂取し、「将軍」「刺史」「王」などの官職を与えられて冊封体制に入った。5世紀前半の一時期には内部抗争が起こり、一時北魏の侵攻を受けた。さらにシルクロードの交易ルート確保をねらう隋の煬帝の攻撃を受けて大敗した。隋の滅亡で勢力を回復したが、唐の時代には太宗の時に再び攻撃を受けて東西に分裂し、東吐谷渾は唐の属国となり、西吐谷渾は吐蕃によって征服された。なお、7世紀の初めにチベットを統一して吐蕃を建国したソンツェン=ガンポは、はじめこの吐谷渾から諸制度を学んだという。 → 唐と隣接諸国