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孝文帝

北魏の皇帝で均田制、三長制などの整備を進め、親政下では洛陽への遷都を強行するなど漢化政策を推進した。仏教を保護し、この時、竜門石窟寺院が造営された。

 北魏の第6代皇帝。471年即位したが、はじめは皇太后の馮太后が摂政となり、均田制三長制の土地公有政策と税制の整備が行われた。

漢化政策の推進

 490年に親政を開始した孝文帝は、積極的な漢化政策に乗り出し、まず494年都を平城から洛陽に遷した。洛陽の宮廷では胡服を着ることは禁止され、中国語の使用が命じられるなど、風俗習慣を中国風に改め、胡族と漢族の通婚が奨励され、胡人の名前も中国風に改められた。また宮廷では南朝風の貴族制度が採用された。また太武帝のときの廃仏は次の4代文成帝の時に終わり、孝文帝の時代には仏教が隆盛し、都洛陽の郊外の竜門に石窟寺院が建造された。

Episode 強行された洛陽遷都

 北魏の平城から南方の洛陽に遷都するという孝文帝の考えには、故郷から離れたくない鮮卑族の反対が強かった。一計を案じた孝文帝は、ある日突然、南朝の斉を討つために江南に遠征することを宣言した。群臣は一斉にその無謀なことを諫め、泣いて止める者も現れた。そこで孝文帝は、南征をあきらめるかわりに中原に都を遷したいと言い、「遷都に賛成の者は左側に、反対の者は右側に並べ!」と一喝した。江南遠征よりは洛陽遷都の方がまだましだ、と思った群臣はあわてて洛陽遷都に賛成したという。<川勝義雄『魏晋南北朝』講談社学術文庫版 p.368>

孝文帝の「漢化」の意味

 孝文帝は、鮮卑という北方民族の建てた北魏の皇帝として華北を支配しながら、漢民族の文化との同化、いわゆる「漢化」を進めたとされている。それについては次のような説明があるので参考になる。
(引用)孝文帝の改革は確かに「漢化」という語で表すことができるであろう。ただし、それを単に「文化の後れた夷狄が進んだ中華文明に同化した」という観点からのみ理解することはできないだろう。多民族的な国家を維持してゆこうとする努力のなかで中国式の制度や風俗が選び取られたとき、そこで目指されるものは漢族文化の現状への単なる追随ではない。むしろ、中華文明のなかに含まれている普遍主義的な「天下」の理念が純化されて取り出され、採用されているともいえるのである。<岸本美緒『中国の歴史』2015 ちくま学芸文庫 p.91>
 その具体的な例として、北魏の都城である平城や洛陽のプランが、後の隋唐の長安城へと連なる整然とした都市計画の先駆けとなっていることをあげている。