印刷 | 通常画面に戻る |

孝文帝

5世紀後半、北魏の皇帝。均田制、三長制などの整備が進めラレタノを受け、親政下では洛陽への遷都を強行するなど漢化政策を推進した。仏教を保護し、この時、竜門石窟寺院が造営された。胡族政権でありながら漢文化への同化、中華王朝化を進めたが、反発が強まり、北魏の東西分裂へと向かった。

 北魏の第6代皇帝。471年即位したが、はじめは皇太后のふう太后(文明太后)が摂政となり、均田制三長制の土地公有政策と税制の整備が行われた。490年、文明太后が死去し、翌年から孝文帝の親政が始まると、孝文帝は矢継ぎ早に改革を実行していった。

漢化政策の推進

 490年に親政を開始した孝文帝は、積極的な漢化政策に乗り出した。その最も重要で、衝撃的なことは洛陽遷都であるが、まずそれ以外のものをあげる。
  1. 爵位制度の変更 まず、491年に初代皇帝太祖の廟号を平文帝から道武帝に改め、同時に道武帝の子孫だけを王とし、それ以外は公に格下げするなどの爵位制度を変更し、爵位や将軍の称号の世襲を禁止した。これは拓跋氏の皇帝としての権威の確立を狙ったものであった。
  2. 胡語・胡服・胡姓の廃止 まず「北俗の語をもって朝廷で言うを得ず。違反者はいまの官職を罷免する」として調停での胡語の使用を禁止した。胡語とは鮮卑語を含む遊牧民の言語のすべてをいい、朝廷の使用言語を漢語に統一した。ポイントは朝廷での胡語の使用の禁止であり、全面禁止ではなかった。朝廷でも三十歳以上のものは免除された。胡服とは遊牧民の生活に適した服装で、男性はフェルトの帽子、袖口のすぼまった上着とズボン、女性はスカートなど。ただしこれも宮廷内での服装であり、日常生活での胡服を禁止したものではない。胡姓の禁止は、漢人風の姓への変更を求めたものだが、洛陽に在住する胡族を対象としたもので、北方に残った胡族はこの限りではなかった。

洛陽への遷都

 親政を開始した孝文帝は、493年8月、突然、南朝を討伐するという理由で、100万の軍を率いて平城を出発、9月に洛陽に入った。冷たい雨の降る中、さらに南下を命じたが、臣下たちが馬前に並んで中止を訴えた。孝文帝は「「何もせずに平城に引き返すわけにはいかない、南朝を討たないならば洛陽に遷都する、賛成するものは右に並べ」と言う。すると臣下たちはみな右に並んだ。こうして洛陽遷都が決定された。この遷都決定は孝文帝によって仕組まれたものだった。平城には遷都に反対するものを残し、遷都に賛成するものを選んで洛陽に連れて行ったのだった。<松下憲一『中華を生んだ遊牧民-鮮卑拓跋の歴史』2023 講談社選書メチエ p.145>
 10月、洛陽遷都の計画を決定し、翌494年、いったん平城に戻り、遊牧民伝統の西郊の祭天を廃止し、再び南下して、正式に洛陽に遷した。洛陽の宮廷では胡服を着ることは禁止され、中国語の使用が命じられるなど、風俗習慣を中国風に改め、胡族と漢族の通婚が奨励され、胡人の名前も中国風に改められた。皇帝である拓跋氏も姓を元に改めた。また宮廷では南朝風の貴族制度が採用された。また太武帝のときの廃仏は次の4代文成帝の即位とともに終っており、孝文帝の時代には仏教がさらに隆盛し、都洛陽の郊外の竜門に石窟寺院が建造された。

Episode 強行された洛陽遷都

 北魏の平城から南方の洛陽に遷都するという孝文帝の考えには、故郷から離れたくない鮮卑族の反対が強かった。一計を案じた孝文帝は、ある日突然、南朝の斉を討つために江南に遠征することを宣言した。群臣は一斉にその無謀なことを諫め、泣いて止める者も現れた。そこで孝文帝は、南征をあきらめるかわりに中原に都を遷したいと言い、「遷都に賛成の者は左側に、反対の者は右側に並べ!」と一喝した。江南遠征よりは洛陽遷都の方がまだましだ、と思った群臣はあわてて洛陽遷都に賛成したという。<川勝義雄『魏晋南北朝』講談社学術文庫版 p.368>

孝文帝の「漢化」の意味

 孝文帝は、鮮卑という北方民族の建てた北魏の皇帝として華北を支配しながら、漢民族の文化との同化、いわゆる「漢化」を進めたとされている。それについては次のような説明があるので参考になる。
(引用)孝文帝の改革は確かに「漢化」という語で表すことができるであろう。ただし、それを単に「文化の後れた夷狄が進んだ中華文明に同化した」という観点からのみ理解することはできないだろう。多民族的な国家を維持してゆこうとする努力のなかで中国式の制度や風俗が選び取られたとき、そこで目指されるものは漢族文化の現状への単なる追随ではない。むしろ、中華文明のなかに含まれている普遍主義的な「天下」の理念が純化されて取り出され、採用されているともいえるのである。<岸本美緒『中国の歴史』2015 ちくま学芸文庫 p.91>
 その具体的な例として、北魏の都城である平城や洛陽のプランが、後の隋唐の長安城へと連なる整然とした都市計画の先駆けとなっていることをあげている。