竜門
北魏の孝文帝以降に洛陽近郊につくられた石窟寺院。灯台まで造営が続けられ、中国独自の様式を発展させた。
494年に北魏の孝文帝が洛陽に遷都したころに始まり、5世紀末~6世紀初頭から8世紀中ごろの唐の玄宗皇帝の頃まで、洛陽の郊外の竜門に造営された石窟寺院。敦煌・雲崗とならび、三大石窟寺院であり、巨大な石仏群が見られるが、雲崗と違い中国独自の様式が見られる。
中国の独自性強まる
竜門には2000以上の大小様々な石窟があり、中国仏教文化の重要な遺産となっている。北魏の最初の都である平城の西郊には、一時北魏の太武帝の弾圧によって衰えた仏教が復興して雲崗の石窟寺院が造営されていたが、孝文帝が漢化政策の一環で洛陽に遷都を強行した際、雲崗に匹敵するものを造りたいと云うことで新たな石窟寺院の造営を始めた。時期が雲崗石仏より下るため、それとは違ってインドのガンダーラ様式やグプタ様式の影響は少なくなり、中国文化の独自性が強くなっており、それは大仏の裳裾の表現に見ることができる。唐王朝の竜門造営
中国文化が開花した唐の時代も、太宗・高宗の時代から則天武后の時代に盛んに造営が続けられた。特に則天武后は、それまでの唐王朝が仏教よりも道教を重んじたのに対して、深く仏教を信仰したので、王朝第一の保護を加えたので、則天武后は都を洛陽に移し、その郊外の竜門石窟寺院も最盛期を迎えた。竜門の毘盧遮那大仏は則天武后が自らに似せて作らせたという話もある。またこのころ、日本から多くの留学僧、留学生が洛陽を訪れており、彼らも竜門の石窟を見ていたであろうから、天平期の日本の仏教美術への影響が考えられる。