漢化政策
鮮卑の建てた北魏の孝文帝が採った、中国文化への同化策。493年、平城から洛陽への遷都などを強行した。それに不満な軍人等の反発が強まり、523年の六鎮の乱が起こり、まもなく北魏は分裂した。
北方遊牧民である鮮卑の拓跋氏が起こした北魏が、華北を統一した後、漢民族の制度や風俗、文化を取り入れて、その支配を行おうとした政策。第6代の孝文帝が494年都を北方の平城から中原の漢民族の古都である洛陽に遷すことを決定し、翌年には胡服を着ることは禁止され、中国語の使用が命じ、胡族と漢族の通婚を奨励し、南朝風の貴族制度を採用した。
漢化政策への不満
孝文帝の時、漢化政策が強行されたことは、それまでの遊牧騎馬民族としての誇りを持っていた武人階層には反対する意見が多かった。洛陽遷都から暫くすると、宮廷には漢文化風の貴族制が形成され、文官や宦官が多くなり、武人はますます肩身が狭くなっていった。また、洛陽に移らず、北方にとどまった武人層も、洛陽宮廷の変化は堕落と感じられるようになった。彼らの不満が爆発したのが、523年の「六鎮(りくちん)の乱」であった。六鎮の乱と北魏の分裂
六鎮とは首都洛陽から遠く離れた北方の長城地帯の国防の第一線に配備された、沃野・懐朔・武川・撫冥・柔玄・懐荒の六つの鎮(駐屯軍)のことで、その兵士の中から中央政府による差別に対する反乱が起こった。彼らは胡族(北方遊牧民)の系統で、騎馬の技術に優れていたが、孝文帝の漢化政策の頃から軽視されるようになり、また北辺の地は流刑地とされたため罪人が鎮兵として送り込まれるようになったため、中央政府から差別視されるようになった。523年、沃野鎮の鎮兵は鎮将を殺害して北魏王朝を否定して年号を真王元年とし反乱を起こした。反乱はたちまち六鎮に広がり、さらに華北一帯をまきこむ大反乱に拡大した。それに対して中央の北魏宮廷は内部対立もあって対応できず、実権は高歓や宇文泰と言った軍人の手に移り、534~535年に東魏と西魏とに分裂、洛陽は両軍の戦う戦場と化してしまった。Episode ユーラシアの東西での同じ動き
孝文帝が洛陽に遷都を実行した494年はどのような年だっただろうか。西洋では何があったか調べてみよう。実はその前年に、ゲルマン民族の一つ東ゴートのテオドリックがローマに入り、オドアケルを討って東ゴート王国を建国している。この東ゴート王国は、ある意味で北魏によく似ている。さて、何が似ているでしょう。答えはこちらから。
北魏は漢化政策、東ゴート王国はローマ化政策を採り、いずれも征服地の高度な文化に同化しようとした。
北魏は華北に侵入した北方遊牧系の鮮卑が建てた国であるが、孝文帝の時から漢化政策を採り、漢文化に同化しようとした。東ゴート王国もゲルマン人が旧西ローマ帝国に侵入し、イタリアの地に建国された。東ゴートを率いたテオドリック王は、同じようにローマ化政策を採っている。いずれも征服者が征服地の高い文化に同化し、本来の姿ではなくなった点が似ている。同じ時期にユーラシアの東西で同じような動きがあったこと、大きく見れば、古代国家から中世への転換と見ることも出来る動きがあったことは興味深い。ただし、宗教面ではやや異なり、北魏は初代太武帝は道教を保護し仏教を排斥したが、4代文成帝の時に仏教保護に転じた。東ゴート王国はローマの文化は積極的に取り入れたが、信仰ではゲルマン人のアリウス派の信仰を捨てず、ローマ教会・ビザンツ教会共通の正統派教義であるアタナシウス派の三位一体説は採らなかった。