聖徳太子
日本の飛鳥時代の摂政。遣隋使の派遣、仏教の導入などを図った。
日本の飛鳥時代、推古天皇の摂政(593~622年)。冠位十二階、憲法十七条の制定などによる政治体制の整備、法隆寺の建設などの仏教保護などを行い、北朝の西魏や隋に倣った国家建設を始めた。その最も象徴的な政策が、607年の遣隋使の派遣である。このときの使節が小野妹子であり、同行した留学生の高向玄理や僧旻らが、隋から唐への権力交替と、隋唐の律令を目のあたりにして、帰国後、日本の大化の改新など、中央集権国家の建設に大きな役割を果たした。なお、世界史上で聖徳太子(574~622)と同時代だった人物には、煬帝(569~618)と唐を建国した李淵(高祖)(565~935)の他に、イスラーム教を622年に開いたムハンマド(576~632)がいる。
聖徳太子の隋との対等な外交
聖徳太子の隋への使節派遣は、『隋書』に記されており、その時の国書には「日出ずる処(ところ)の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)なきや」とあり、それを受け取った煬帝は「これを覧て悦ばず。鴻臚卿(外務大臣)にいっていわく、蛮夷の書、無礼なるものあり、また以聞(奏上)するなかれ」と言ったという。隋から見て東方の夷人の国にすぎない日本の聖徳太子が、対等なものの言い方で交渉に臨んできたので、無礼であると悦ばなかったわけである。しかし結局、煬帝は結局聖徳太子の国書を受け取り、翌年は裴世清を日本に使わしている。おそらく高句麗討伐をめざす煬帝はその背後にある日本と結ぶことを有利と考えたのであろう。