隋の高句麗遠征
隋の煬帝が、612年から614年、3回にわたり高句麗征服を図ったが、激しい抵抗を受けた。隋の滅亡の一因となった。
隋の高句麗遠征は、すでに文帝の時に始まっていた。三国時代で激しく高句麗と対立していた百済の要請に応えたものではあったが、文帝は北方の突厥と高句麗が結ぶのをおそれたため、などの理由も挙げられている。口実としては、朝鮮三国のうち、新羅と百済は隋に朝貢し、冊封体制に入ったにもかかわらず、高句麗はそれに従わなかったからとされている。
煬帝の高句麗遠征失敗
隋の煬帝は、612年~614年まで、3年連続で3回にわたり遠征軍を送ったが、高句麗の激しい抵抗に遭い、失敗した。遠征中に、負担の増加に反発した民衆反乱が各地に始まり、煬帝は都を脱出して揚州に逃れたが、殺害され隋は滅亡した。高句麗遠征及び、そのための物資輸送用に永済渠という運河をつくったことなどが農民の負担となり、隋の支配に対する反乱の勃発となった。韓国(朝鮮)の歴史の中で最大の激戦といわれた、隋の煬帝の遠征軍と高句麗軍の戦いは、次のような経緯であった。<金両基『物語韓国の歴史』p.135-144>- 第1回遠征 612年正月、隋の煬帝は高句麗討伐の詔書を下した。不恭な高句麗の小醜どもを討ち滅ぼし、古くは箕子が治め、近くは漢四郡であった旧地を取り戻す戦いであると遠征目的を述べている。総勢113万3800人であったが、世に2百万の大軍と言われた。その軍糧を運ぶものは総勢の倍であったという。2百万の大軍は毎日一軍ずつ出発し、全軍の送軍が終了するまで40日かかった(『三国史記』)。迎え撃つ高句麗軍の将軍乙支文徳は、後退策をとり、隋軍が平壌まで三里に攻め込んできたところで、投降すると装って隋軍の足を止め、気が緩んだところを一気に攻撃して大勝した。二百万の大軍と称された隋軍がその半数にも満たない高句麗軍に敗れたと報告を受けた煬帝は激怒し、逃げ帰った将軍たちを捕らえて鉄鎖につないで引いていった。
- 第2回遠征 613年4月、隋軍は遼東城に陣を張る高句麗軍に対し、新兵器を使って昼夜無休で攻撃したが、城は落ちなかった。双方に大きな損失が生じ戦場は死体で埋まった。煬帝は最後の手段として城よりも高い八輪で支えた楼車を作り、その上から城を見おろして矢を射させた。ところが戦闘の最中、煬帝の耳に謀叛の知らせが届いた。王宮が反乱軍に占拠されそうだと聞いた煬帝はあわてて戦闘を中止、急遽都に戻り、危機一髪で反乱を鎮めた。
- 第3回遠征 614年7月、隋軍は再び平壌城の近くまで侵攻した。高句麗の嬰陽王は煬帝に使者を送り降伏を申し出た。煬帝は大いに喜び、攻撃を取り止めて西京(長安)に帰った。翌年8月、煬帝は高句麗王にただちに入朝せよともとめたが、嬰陽王は平壌城を出ようとせず、怒った煬帝は再々出動の準備を命じたが、結局、出動することはなかった。もはや戦いに疲れた隋の将兵にはただちに遠征に立ち上がる余力がなくなっていた。