李淵/高祖
618年、隋を倒し唐朝を建て初代皇帝高祖(廟号)となった。隋の律令政治を継承したが子の李世民に退位させられた。

唐高祖・李淵
中国のトランプより
関隴集団
李氏は漢民族の姓を名乗っているが、鮮卑系とも関係が深い。その家系は西魏以来の八柱国(将軍)の家柄であった。北周を事実上建国した宇文泰や、隋を建国した楊堅(文帝)らと同じように、北魏の六鎮の一つであった武川鎮(ぶせんちん)を拠点としていた鮮卑系軍人と漢人土着勢力の融合した関隴集団の一人であった。李淵は西魏の高級軍人である八柱国の李虎の孫であり、母も同じく八柱国独孤氏の娘で、北周明帝、隋文帝の皇后と姉妹であった。このように北周、隋、唐の王朝は関隴集団の密接な血縁関係にあった。ただし、当時はすでに鮮卑(胡族)は漢民族との融合が進んでおり、李淵自身も漢人であると自覚していた。関隴集団については楊堅(文帝)の項、参照。参考 李淵の出自
唐を建国した李淵は母方の鮮卑系の胡族の血をひいていることは確かであるが、その祖先の段階で漢人と同化している。彼を漢人か胡人(北方系民族)のいずれであるかを断定することは、当時すでに無意味になっていたと言って良い。ただし、中国を再統一した隋および唐が北朝系統の王朝(拓跋国家ともいう)であり、中国の漢文化の中に北方的要素が加わった時代であったことは留意しておこう。李淵の出自については次のような説明が最も妥当と思われる。(引用)李淵は隋室を興した楊堅と同じく、関隴系の主流から出た。祖父の李虎は武川鎮(内モンゴル)の出身で、西魏の建国にかかわり、その枢軸をなす八柱国の一人とされた。陳寅恪(注・現代中国の歴史家)氏は、唐室のもとは漢族名門の趙郡(河北省)から出ているといい、また唐室じしんは出自を中国風に隴西(ろうせい、甘粛省)狄道(てきどう)と名乗るが、長く武川鎮で辺境防備にあたってきた過去や、大野(だいや)氏という胡姓を使用していた時期があったことなどから、やはり隋室と同じく鮮卑・北族系か、それに近い漢族とみなしてよさそうである。<氣賀澤保規『絢爛たる世界帝国 隋唐時代』2005初刊 2020再刊 講談社学術文庫 p.63>
李淵の権力獲得
李淵は北周の566年に生まれ、16歳の時、隋の文帝(楊堅)に仕え、地方や中央の官僚を務めていた。隋末に反乱が起きると、617年に子の李世民(後の太宗)らとともに山西省の太原で挙兵し、まもなく都大興城を占領、煬帝の孫の恭帝をたて、煬帝が揚州で暗殺されると、禅譲(前皇帝から帝位を譲り受けること)によって皇帝となった(618年5月)。唐の高祖の統治
隋に代わって唐を建国し、長安を都とした。唐の初代の皇帝としては在位618~626年。621年には、漢の武帝の五銖銭以来の貨幣である開元通宝を鋳造、発行した。さらに624年には唐の最初の律令である武徳律令を制定した。しかし、高祖の時代にはまだ各地に群雄割拠し、唐朝の勢力は全土に及んでいなかった。実子に幽閉される
626年、「玄武門の変」が起こり、第2子の李世民によって退位させられ、幽閉されてしまった。李世民は兄と弟を殺害して権力を握り、太宗として即位した。太宗が編集させた『高祖実録』では、高祖、つまり李淵は優柔不断な性格で、617年の太原挙兵もためらう李淵を決起させたのが李世民だったとされ、また兄の建成は酒色にふける不適格者だったとされている。これも割引して見る必要があるだろう。なお、唐の高祖李淵は、イスラームの創始者ムハンマド(576~632)や日本の聖徳太子(574~622)とほぼ同じ時期に当たる。